khurata’s blog

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「いじめ問題」に対する姿勢~問われているのは「大人」である~

(もともと「Yahoo!知恵袋」の「知恵ノート」だったものを転載しています)
(最終更新日時:2015/11/6)投稿日:2012/7/16

はじめに

 2012年の夏、多くの人々の心に痛ましい思いを刻んだ大津のいじめ自殺事件。 これだけでなく、学校でのいじめは後を絶たないし、いじめを苦にした自殺もまた止まない。 本ノートでは、「子供のいじめ」について、私なりに思うところを書き記す。

 

いじめの原因

 学校におけるいじめ「問題」の根源は、いじめる側も、いじめられる側も、命の重さを知らない、という点に尽きる。 子供であるからしてそこは仕方ない(かく言う私だって、我が子の経験が無いので、多分「本当には」分かっていないのだろう)。
 命の重さを知らないから、平気で他人の命(と尊厳)を踏みにじるような事が出来るし、罪悪感も無い。 ただ、「遊び」感覚でしかない。 いじめられた側も、命の重さを知らないから、自殺という手段に出る事をいとわない。

 子供に向かって、いくら命の大切さ・重さを言葉で説いても無駄だ。 昔も今も、「なぜ人を殺してはいけないのか」と問うのは、子供である。 「大人」は、その答えを分かっているが、子供にいくら説明したところで、納得はさせられまい。

 なぜなら、「大人が分かっている答え」とは、人生に対する想像力だからである。 世界に誇れる技術を持つ町工場のオヤジが、だらしなく酔っぱらって町中をフラついている事もある、そういう事を想像出来る「大人」は、「誰でもよかった」などといって無差別殺人を犯したりはしない。
 また、ある若い女性は、子を産んでから、「この世の中に、自分が死ぬよりも恐ろしい事が有ると、はじめて知った」と言う。 大人が知る「答え」とは、こ ういう経験や知識の積み重ねである。 それは、子供に、いくら言葉を尽くしても伝えられない。 「大人になれば分かる」としか言えないのだ。 「命の大切さを教育しよう」などと、まことしやかに言う「識者」がおられるが、それは「イヌに日本語をしゃべらせよう」とするが如く、無駄な教育である。

 子供は、他人の人生どころか、自分の人生さえ知らない。 だから、「命の重さ」と言われても、実感のしようがない。

 そんな、「命を知らない」子供が、身体的成長によって暴力を得る。 いじめる側にしてみれば、いじめは、単なる遊びであり、蟻を踏みつぶすのと変わらない。 「命を知らない」からこそ子供なのであり、そんな彼らには何らの責も負わせられない。

 

子供が「秘密」を持つということ

 子供の生活に、いじめや喧嘩は付き物だ。 それによって子供達は人間関係を学んでいく。 全てのいじめを根絶は出来ないし、すべきでもない。
 全ての子供を完全監視下に置けば、いじめは根絶できるかも知れない。 それは子供から全ての秘密を奪う事でもある。 しかし「秘密」は子供の心を育てる重要な糧だ。

 『クローディアの秘密』という児童文学を御存知だろうか。 この中で、12歳の主人公は、ある「秘密」を持ち、それをごくわずかな人数でのみ共有する。
 秘密とは、自分だけが知っている事だ。 「これは、私だけが知っている」と思う事を持つ事が、その子供のアイデンティティを育てる。 「これを知るのは、世界で唯一、私だけだ」という思いが、自分と、その他の世界・その他の人達との間を隔て、「自分を確立」するために必要なのだ。

 しかし、矛盾するようだが、自分だけが知っているのみでは、「秘密」は秘密ではない。 「私は秘密を持っている」という事が、他人から見て分かる、それが重要である。 そうでなければ、「私は皆とは違う」という事を、皆から分かってもらえないからだ。
 だから、人は、秘密を共有出来る「仲間」を強く欲する。 ごくわずかな人数の仲間でのみ共有する「秘密」、それは、自分が自分である事を、仲間同士で確認するための、とても大切な手段だ。

 子供の安全のために、通学路に監視カメラを置いたり、子供にGPS端末を持たせて、常に居場所を把握するのは、確かに重要な事かも知れない。
 だが、子供から秘密を奪う事は、子供の心の自立をも奪う事を、大人は知るべきである。 自分達が子供だった頃を思い起こしてみるとよい。 「子供達の領域」に、大人が立ち入ってくる事を毛嫌いしていた思い出が、誰しも有るはずだ。

 では、大人は、どうやって子供の安全を守るべきか。 月並みだが、私は、常に対話をする事に尽きると思う。 何事でも話せる間柄になること。 積極的に、しかし過度にならない程度に話しかけること。 子供の態度や言動に気を付けること。
 当たり前のようだが、こうした地道な姿勢こそが、子供を守り、子供の秘密も守るはずだと私は信じる。

 

大人が持つべき認識

 いじめ加害者を、いくら糾弾したところで、再発も防止出来ないし、誰も救えない。 糾弾されるべきは、「命を知らない」子供達を預かりつつも、その事に無頓着、かつ過ちを隠蔽しようとした、周囲の大人達である。
 「やり過ぎるなよ」と言った教師は「現場」を知っており、止める事はいつでも出来たはずだ。 被害児童の親は、子を逃がす事だって出来たはずだ。 「学校には行かなくちゃならない」なんてのは固定観念に過ぎない(不登校・非登校児の親についても同様)。

 「命を知らない」子供達を預かる学校・教師・教委には、子供がそういう者であるという認識が強く必要だし、だからこそ、度を過ぎたいじめ行為には敏感で在らねばならない。 ましてや隠蔽など論外だ。 大人の側が命を軽んじておいて、子供に人権を説くなど不遜も甚だしい。

 

逃げられる場所を

 数十年前から、学校でのいじめと、それによる自殺は後を絶たない。 そうなる原因の1つは、「子供達が逃げる手段」を、大人側がまるで用意していないからだ。 「学校に行きたくない」と言う子供は、単に駄々をこねているのかも知れないが、その背中を押すのは子供の逃げ道を奪う事でもある。

 大人になれば誰もが分かる事だが、子供が自由に動ける「世界の範囲」は、非常に狭い。 つまり、「子供の逃げ場所」は、大人が用意しない限り、無いのだ。 家と学校を往復しているうちに、他に逃げようが無くなり、死しか選択地が無くなってしまう。

 せめて我が子に対してだけでも、家と学校以外の逃げ場所を、いつでも確保して使えるようにしておくのが親の務めと思う(転居・転校も1つの選択である)。 どうしようも無くつらい事からは、当面、逃げたって良い、という事を教えておけば、少なくとも死なせる事は無いはずだ。

 残念な事だが、大人も自死を選ぶ事が少なくない。 おそらく、その大人も、自分の世界の中に「逃げ場を見つけられなかった」。 いつでも逃げられる場所が有り、たまには逃げても良いのだ、という考えを、社会で広く共有・実践出来れば、いじめを無くす事は出来なくても、いじめで死ぬなんて事は無くせるのではないかと思う。

 

大人の姿勢

 子供の世界というものは、きわめて限定された範囲でしかなく、大人になれば「子供のいじめ」なんてものからは自然と・簡単に脱却出来るという事、大人になれば色々と面白い事も有るのだという事を、大人は常に子供に対して見せびらかすべきだと私は思う。
 子供から見た「大人の世界」が、つまらなく、つらく、大変なものだ……としか映らなければ、つらい思いをしている子供の選択肢から「大人になる」は除外され、自死を近付けてしまうだろう。 「大人になれば楽しい事がいっぱい有る」と知らしめる事は、子供に忍耐を与え、子供を救う。

 だから、大人は、子供から見て常に憧れと羨みの対象でなければならない。 子供から見える所では「大変だ」「しんどい」等と言うべきではないし、夫婦は、たとえ実態は「仮面夫婦」であっても、子供達の前でだけは仲睦まじくすべきだ。 子供の見ている所では大人の特権を駆使し、子供との差別化を徹底すべきである。 夜更かししたり、好きな買い物をしたり、セックスを楽しんだりするのは、大人だけで良い。 子供からは徹底して「大人の楽しみ」を取り上げ、もし、それをやっている所を見つけたら厳しく叱ってやるのだ。
 毅然として、「それは大人になるまでやってはいけない」と、頭ごなしに、理不尽に、教えねばならない。 その姿勢は、ともすれば子供に「大人は敵だ」という認識を植え付けてしまい、親子関係をこじらせてしまうかもしれない。 だが、大人がそれを怖れてしまっては、子供から「大人になる」という選択を奪ってしまいかねない。 「子供の命」を守るためには、子供から理解されなくとも、大人と子供を強く差別化しなければならない。

 先に述べた、「子供の秘密を守りつつも、子供を守るための対話」関係を普段から築いていれば、たとえ理解はされなくとも、離れていってしまう心配は少ないと私は思う。
 本当に大事なのは、「今、子供である、子供達の思い」なのか、それとも、「将来大人になる、子供達の命」なのか、どちらであろうか。 私は、断じて後者を取る。

 少なくとも子供達の目のある所では、大人自身が「大人とは、いいものだ」「大人こそが、世の中の支配者だ」という態様を取り続け、そして「子供はいつか必ず大人になり、この世界を受け継ぐのだ」と教え続ける事……それが、子供から「今、死ぬ」という選択を遠ざけ、大人になるという選択肢と希望を与えるのだ。
 ただし、子供達と常に対話して「関係」を築いていることが、その前提には有る。

 子供達と対話を続け、子供達に「大人」を差別化し続けること…子供達の命を奪ういじめ問題が、我々大人に問うているのは、「大人たりうるか」なのである。

 

いじめをした子供達を育てる

 子供であるいじめ加害当事者を糾弾する行為には、何らの益も無い。 彼らには、深い反省が必要だが、しかし本当に自分の罪深さが分かるのは、大人になった時であろう。 その時になって、自分の罪の重さに気付き向き合えるようになるには、「子供に対する糾弾」など不要どころか邪魔でしかない。

 むしろ彼らを守り、大切に育てる事だ(もちろん、ここで「大切にする」方向を誤ってしまってはいけない)。 自分は大人達から大切にされた、と心底から思い出せる経験は、「命を知る」ために必要な1つの要件である。

 加害児童が、被害児童の事を、蟻と同程度に思うのは、彼らが子供である以上、致し方が無い。 彼らが大人になった時、「いじめたアイツも『人』だった」と気付くかどうかは、周囲の大人達に全てが懸かっている。 大人達から吊るし上げを食らっては、その事には気付けまい。

 我が子と学校生活について対話をしなかったであろう加害・被害児童の親や、隠蔽しようとした周囲の教育者は、糾弾を免れまい。 そして、「そのような大人達のせいで殺人者として生きねばならなくなった」「大人になり『命』を知れば大きく苦しむ」という点で、加害児童は大人が生み出した被害者なのだ。

 私は重ねて断言する。 いじめの当事者には、子供である以上、罪は無い。 彼らを罪人に仕立て上げたのは、間違いなく周囲の大人達である。 子供が「命を知らない者」である事を、知ってか知らずか、そのように扱わなかった大人達の責任である。
 「子供にだって罪はある、断罪はすべきだ、少年法は無意味だ」という論調も、よく目にする。 しかし「無知な者」を裁くべきだというのは暴論だ。 もし本当にそうする事が妥当ならば、たとえば次のような事件で、子供の側を裁けるだろうか。

2012/07/15 報道
 AP通信によると、米インディアナ州南部で13日、3歳の男児が自宅で誤って拳銃を発砲、父親(33)が死亡した。
 地元警察によると、拳銃は父親が自宅に持ち込んだものだった。当時、2人のほか、男児の母親やきょうだいらが在宅していた。検察当局は周囲の大人に落ち度がなかったかどうかなどを調べている。(共同)

 この事件で落ち度があるのは、明らかに周囲の大人達である。 犠牲が出るのは痛ましい事だが、そう思うなら尚のこと、子供を取り巻く大人達や環境に「落ち度」が無かったのかを、大人は自ら問わねばならない。

 

おわりに

 何度でも言うが、子供は「命を知らない」。 命を知らないからこそ、蟻を潰すようにいじめが出来る。 命を知らない者に対して、裁きを下しても全く無意味だ。 まずするべきは、命を知ってもらうこと、つまり大人になってもらうことであり、大人達がそれを実際に助ける事である。

 

-追記-

 radical_radialさんより、「子供と老人は社会の縮図。非正規雇用が若年層の半数近いという。先の見えない不安が、いじめと言う歪みになっているように思う」というコメントをいただきました。
 しかし、子供のいじめは、はるか昔から存在します(近代になって、学校という「子供の入れ物」が出来てから、多少変質したかも知れない、とは思いますが)。
 従って、もし、社会不安が「子供のいじめ」の原因であるならば、それは過去からずっと「社会に不安がある」と言っているに等しいと私は思います(そして過去数千年、それが全て解決された事はありませんでした)。
(2012/10/09)

-追記-

 細かい表現の編集や追加を行いました。
(2013/01/13)

-追記2-

 nyarizumu さんより、「誤って銃を発砲した3歳の子と違い、いじめをする子は、いじめていることを自覚し楽しんでいる。それでも罪がないと言える事例は有るのか」という主旨のアドバイスをいただきました。
 事例は、探せば有るのかも知れませんが、具体例を示す事は残念ながら私には出来ません。 しかし、ネズミをいたぶり殺すネコに罪は有るのか、と問われれば、私は「無い」と答えます。
 本文で、私は、いじめは「蟻を殺すようなもの」と書きました。 子供は、蟻の巣に「大量虐殺」を仕掛ける事がままありますが、そこに罪の意識は無く、nyarizumu さんご指摘の通り、彼らにとって、それは娯楽でしかありません。 「命を知らない者の娯楽」なのです。
 いじめる側の子供は、いじめられる側を「自分と対等の人間」と思っていません。 人間と思っていないから、いじめを楽しむ事が出来ます。 ホームレス襲撃も同じです。 なぜ、いじめられる側を、ホームレスを、「対等の人間」と思えないのか、それは、命や人生に対する知識と想像力が欠けているからだと私は考えます。
 その行為における知識の無い人間が犯した過ちを、罪に問う事が出来る……とは、私には言えません。 それなら少年法も不要でしょう。

-追記3-

 mayumayuyukari さんより、「子供だって命くらい知ってます。」というアドバイスをいただきました。
 確かに、生き物が命を持って生きている、という事は、3~4歳児でも知っています。 そういう意味ではおっしゃる通りです。 しかし、小学校低学年くらいの子供が、アリの巣を「壊滅」させたり、生きているミミズや虫の体を分解したりなど、「大人になったらしないような残虐な事」を平気で出来るのは、「命が有る事は知っていても、それがどういうものかは知らない」からでしょう。
 また、仮に、子供が「命を知っている」上で、そういう行為に及んでいるのであれば、子供にも責任を問わねばなりません。 しかしそのような事は、近現代にはそぐわない事です。

(転載以上)


コメント(1)
他人の命や人生についての想像力が無いから、こういう事が平気で出来る。 平和教育に重点を置いている沖縄でさえこうなのだ。 これは教育を何とかして解決できる事では無い。 「子供」の本質なのだ。

少年ら「肝試しだった」 チビチリガマ荒らした疑い
(小山謙太郎、山下龍一 2017年9月16日11時32分)
http://www.asahi.com/articles/ASK9J32P9K9JTPOB001.html

沖縄戦の際に住民83人が「集団自決」に追い込まれた沖縄県読谷(よみたん)村の洞窟「チビチリガマ」が荒らされた事件で、沖縄県警は16日、県内の16~19歳の少年4人を器物損壊の疑いで逮捕し、発表した。4人は「やったことは間違いありません」と容疑を認めており、動機は「肝試しだった」などと話しているという。

嘉手納署によると、逮捕されたのは、いずれも読谷村がある沖縄本島中部在住の無職や型枠解体工。5日正午ごろ~12日午前11時ごろにチビチリガマで、看板2枚や額1枚、千羽鶴4束を壊した疑いがある。

[ khurata ]
2017/9/16(土) 午後 1:30