khurata’s blog

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科学とか数学とか

mixi日記 http://open.mixi.jp/user/81557/diary/1962788162 からの転載)

日本人はノーベル賞を取れなくなる? 過去の受賞者が懸念 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170923/k10011153701000.html

(2020.08.27 上掲リンク切れのため別リンクを示す https://www.nhk.or.jp/d-navi/sci_cul/2017/09/story/news_170928_2/

 まぁ、何と言うか…これについて言いたい事は山ほど有るが…。

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 ウチの母は、理科とか数学とかは大の苦手で、数字を見るのも嫌だと言う人である。 中学は卒業しているものの、本人いわくマトモに通学していなかったらしい(昭和20~30年代の話)。 でも、時たま、新聞や TV で科学関連の記事やニュースを見ると、私に質問してくる事がある。

 私は母のレベルがある程度分かっているから、それに合わせて説明する。 すると、まぁ、だいたいは分かってくれるのだ。 そして決まってこう宣う。

「学校でもそういう風に教えてくれれば良かったのに!」

 …いやいや、アンタほとんど学校行ってないんだから、それ言っても無意味でしょ。 と言うのは兎も角、科学や数学について知識が無くても、なんとか説明すれば分かってもらえるし、面白がってもくれる(先日は、デイケアで一緒になる老人達にも説明してやるぞ、と意気込んでいた)。

 自分の感覚で言えば、科学や数学は面白いんである。 学者とか研究者ってのは、研究や勉強が好きだからやってると言うよりは、それが面白いからやってるのだ。
 まぁ、ウチの母について言えば、子の言うことだから真摯に聞いてくれた、というのは大きな事情として有るのだが…。

 それこそ私が子供だった数十年前から言われ続けている事だが、理科や算数が嫌いな子供がいるのは、教える側が面白さを伝えられなかったからだと強く思う。

 20世紀後半からこっち、我々の社会は科学と数学に支配されている。 先進国では、生活のいっときたりとも、科学と数学の恩恵から逃れることは無い。 にも関わらず、それらを嫌いな子供を量産していては、いずれ先進国から落ちこぼれる事になろう。

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 他の国ではどうだか知らないが、我が国では、数学者や科学者というと、根暗で、人付き合いが下手で、ずっと部屋にこもりきりで、不健康で、異性にモテず、いつも同じダサい服を着て、何を考えているか分からない奇妙な変人である、というイメージが強く広く存在する。

 そのせいか、いわゆる理系(という括りを無意味とする向きもあるがあえて使う)は、我が国では出世しにくい。 人を使い、組織を率いる能力が無いというイメージがあるせいだろう。
 実際には、多くの研究にはチームワークが必要なので、人数を束ねて合理的に物事を計画し進めていく能力は欠かせないのだけれど。

 結果として、いわゆる文系が我が国を経済的・政治的に支配し、理系は傍らに追いやられる。 そして「理系は使えない、稼げない」というイメージが再生産され、子供達に伝わる。

 科学や数学が人並み以上に出来る人の平均所得が低い先進国なんて、おそらく我が国だけではあるまいか。

 ほぼ全ての人が、科学と数学の地平の上で暮らしているのに(※1)。

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 今から30年も前、米国の大学で薬学や生物学の研究をしようと思えば、試薬や酵素のセットは学食みたいな所にある自販機で24時間いつでも買えたし、試験管やビーカーは全て使い捨てで、しかも各種実験の手技手法に通じた「技術者」を「手」として使う事もできた。 つまり学生や研究者が実験のプランを立てたら、即実行できる環境が整っている。
 こんな事が出来るのは、もちろん潤沢な予算があるおかげだ。

 しかし我が国はどうだ。 そんなキットが一般化したのは最近のこと、30年前だったら実験したい人が必要なモノを手ずから全て揃えなければならず、器具はいちいち洗浄しなきゃならなかった。 手伝う人は今も足りない。 利根川進が米国に渡ったのもむべなるかな(※2)。

 戦時中、軍から極秘に依頼されて核爆弾の研究をしていた仁科芳雄が、電動モーターを欲しい時に部品の一覧表を作って提出し、配給を待ち、自分達で組み立てねばならなくなった時、

アメリカだったらモーターなんて電話1つですぐ届くのに」

とボヤいたそうだが(本当にそう言ったかは知らない)、それから70年経っても、あまり状況は変わっていないように見える。

 冒頭記事に書かれているように、近年、日本人のノーベル賞受賞が相次いでいるのは、「1980年代から90年代の仕事を、今、評価してもらっている」からであるが、これはいわゆるバブル経済の時期に相当する。 その頃は我が国も「研究開発」にカネをふんだんに注ぎ込む事が出来たのだ。

 ああそれなのに我が国は、野党第一党の党首がスーパーコンピューターの予算を削ろうとしたり、大学を貧しくする事に汲々としている。 かつて国民が熱狂した「はやぶさ」だって、超低予算プロジェクトだった。

 なぜそうなるのか、それは「上」に立つ者が科学や数学の重要性を理解できないからである。 また、そのような者を国民が選び出すからである。 そりゃそうだ、多くの国民は科学者や数学者を

根暗で、人付き合いが下手で、ずっと部屋にこもりきりで、不健康で、異性にモテず、いつも同じダサい服を着て、何を考えているか分からない奇妙な変人

だと思っているのだから。 ところでこのイメージ、何かに似ていると思ったら「小児性愛」だよ。 なぜこんな事になってしまったのかなぁ…。

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※1
近い将来、これにプログラミングも加わるだろう。 そして我が国におけるプログラマーのイメージは、やはり「根暗で、人付き合いが下手で、ずっと部屋にこもりきりで、不健康で、異性にモテず、いつも同じダサい服を着て、何を考えているか分からない奇妙な変人」であり、平均所得も高くはない。 プログラマーは英語が出来るならさっさと海外に行く方が高給取りになれる。
我が国では、コツコツ仕事をやる人は評価されるが、その仕事用のプログラムを作って手早く片付ける人はなぜか評価されにくい。 どうも日本人は、自らを奴隷の位置に置く人を評価する向きがあるように思われる。 奴隷でもやれる事は「電子奴隷」にやらせておけば良いのだ、という考えは、なぜかなかなか定着しない(※3)。

※2
https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/tour/nobel/tonegawa/p2.html
「もし本気で分子生物学を勉強したいのなら、アメリカへ行きなさい。日本にいてはだめだ。留学の世話は私がしよう」
というくだり、「日本にいてはだめだ」と言われた理由は様々あろう。 様々の事情を総合的に考えて、「日本にいてはだめだ」なのである。 なぜこんな台詞が出てくるのか、我が国の経済人や政治家は考えてみるべきである。

※3
私が個人的に興味深いと思っている事の1つが、「古代ギリシアでは奴隷を使う事は当たり前で、奴隷を使う事で人間は『人間らしい生活』が出来ると考えられていた」、という事だ。
生活の些事や、食べていくための労働を奴隷に担ってもらう事で、人間は自由になり、彫刻や音楽、劇、文学や哲学、政治などの「人間的な活動」をする時間が生まれ、直接民主制すら実現させた。
今、我々は食べるための労働に追われ、間接民主主義しか実現出来ていないが(※4)、「電子奴隷」をうまく使えれば、直接民主主義だって出来ない事ではないと私は考える。 しかし※2で述べた「日本人の気質」からすると、それも我が国では難しいのかもしれない。

※4
その結果として、現代の間接民主主義では「そんなに働かなくても生活に困らない、ヒマで、かつ声の大きい人」が有利となる。 政治家に対する陳情やロビー活動は、そういう人達にしか出来ないからだ。 裁判員制度についても似た事が言える。
このため、多くの「働かざるを得ない国民」の声は、政治には届かず、庶民は常に政治に不満を持つことになる。 今のところ、この問題を解決できそうな現実的な解を我々は持ち合わせないが、私は「電子奴隷」にわずかな希望を持ちたい。