khurata’s blog

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命は「大切にする」のではなく「粗略にしない」

(もともと「Yahoo!知恵袋」の「知恵ノート」だったものを転載しています)
(最終更新日時:2014/3/22)投稿日:2012/4/25

 

 たとえ大腸菌1つ、ミジンコ1匹といえども、その1匹は、突然変異を持つ子を産み出し、ミジンコ界や、ひいては生物界に大きな変革と進歩をもたらす1匹かもしれない。 そういう可能性は、細菌1つ、人ひとりを取っても、ひとしく存在する。
 それを知った我々は、命1つ1つを尊重すべきであると私は思う。 同じ「可能性を持つ者どうし」である以上、ミジンコと人の命を比べてその軽重を問うことは、一箇の生物として、はなはだ不遜な態度であろう。

 しかし、命を尊重すべし、とは言っても、生きていく以上、他者の命を絶たないでいることも不可能だ。

  よく、「命を大切に」、などと言うが、それは妄言だ。 日々殺生を繰り返さねば、我々も野生の生物も生きては行けない。 我々人間が、命の無いもの、例えば乳と蜜だけを食べて暮らしたとしても、我々の体は免疫機能により、周囲の細菌を常に大量に殺している。 一見、殺生していないように見える植物も、殺菌作用物質を分泌して、我が身を守っている。

 殺生するなかれ、というのは、そもそも無理な話なのだ。 殺生をしてはいけないなら、自分が死ぬしかないが、それは自分を殺すことになり、 やはり殺生してしまうことになる。
 つまり、「命を大切にしよう」などという言い草は、まさしく言葉遊びに過ぎない。 「人間1人の生命は地球より重い」と言う方がいるが、その口で「細菌1つの命は人間より重い」と言えるのだろうか。

 「命を大切に」と言うのは、あたかも、何億円も無駄遣いをしながら、倹約は大事だと言うようなもので、空しい言葉だ。 どう頑張ったところで、所詮、我々は、命を大事にする事など出来はしない。 出来もしない事を「頑張ろう」などと言うのは、自分と他人を欺き騙す言葉に過ぎない。

 命とは、殊更に大切にすべきものでもなく、絶ってはならぬものでもない。 それは、粗略に扱うべきものでない、ということを知ろう。

 細菌を殺し、牛や豚を殺し、魚を殺し、穀物種子を殺し、野菜を殺して、自らが生きている事を知ってしまった以上は、彼らの死を無に帰さないように、生きるべきではないか、それが私の思いである。

 免疫や、食事によって、我々は、毎日、他者を殺している。 他者の「人生」を踏み台にしている。 たとえ殺人を犯したことが無い人であっても、無数の「小さな踏み台」を踏みつけ、殺し、今まで生きてきたのだ。
 相手が人間なら、せめて謝ったり、詫びる事くらいは出来よう。 しかし我々は、踏みつけ殺してきた多くの生き物達に、いちいち「済まない」と詫びて回る事すら出来ない。

 そんな我々に、せめてもの出来る事とは何か。

 それは、そうした生き物達の命を、決して粗略にしないこと。 それしか出来ないと私は思っている。 具体的に言えば、自らの命と人生を、より高めていく事である。

 「こんな素晴らしいヤツに、『踏み台』にされるんなら、まぁ仕方ないよな(笑)」とか、「こんな素晴らしい人の『踏み台』になれて、私は幸せだった」とか……、「彼ら」から、そう思われるような生き方を、考え、選び、生きていく事だ。 それ以外に、無数の「踏み台」の「人生」を無駄にしない方法が有るだろうか。

 そしてもう1つ、我らの生命を絶やさないために、次の世代を作ること、そして、次の世代が絶えないように心を配り行動することも、ひとしく大事と知るべきである。  もし我らの生命が絶えたなら、我らが殺してきた「彼ら」、我らのために死んでいった「彼ら」の命も、また絶えるのだ。 これは「彼ら」にとってまさしく無念と言う他あるまい。 謝って謝りきれる事でもない。

 そして、自らが死ぬ時は、「我らの命を、身命を捧げて支えてくれた、彼ら」、「我らが日々踏みつけ、殺してきた無数の彼ら」に報いる事が出来たか、「彼ら」に堂々と胸を張れる生涯であったか、それを自問したい。

 我ら人間が、他者の命を守りきって生きることは不可能だが、命を粗略に扱わないこと、粗末にしないことは、心がけ次第で出来るのではないか、……私は、そう思っている。