khurata’s blog

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お金とは何か?

(もともと「Yahoo!知恵袋」の「知恵ノート」だったものを転載しています)
(最終更新日時:2015/12/11)投稿日:2013/3/7

はじめに

 普段、我々がお世話になっている「お金」……生活する上で欠かせない「お金」ですが、いったい、「お金」とは何なのか、考えた事がお有りでしょうか。
 なぜ我々は、紙切れに過ぎない1万円札を、価値あるモノと引き換えるのでしょう。 あまつさえ、企業間の取引や、株式市場、証券取引市場で取引されているのは、貨幣ですらなく、ただの数字です。 万札やドル札が飛び交う証取市場などありません。 そういう場面では、「ただの数字」が、とてつもない価値を持つものとして扱われます。

 なぜそんな事になるのか、このノートでは、社会常識として知っておくべき、お金の「信用創造」や、なぜ利子が必要なのか、などについて、初歩的な点を、分かりやすく説明しようと思います。

 

お金は貸し借りすると増える

 今、これをお読みになっているあなたが1万円を持っていて、私が1円も持っていないとします。 この2人の世界に在るお金の総額は、1万円です。

 ここで、私が「1万円貸して欲しい」と、あなたに頼み込んで、借りたとします。 私は、「あなたから確かに1万円借りました」という借用書を書いて、あなたに渡すでしょう。

 この時点で、あなたの手元には借用書、私の手元には1万円があります。

 そして……あなたは、他の誰かに、その借用書を1万円で売る事が出来るでしょう。 なぜなら、その借用書を私の所に持ってくれば、持ってきた人が誰であれ、その人に私が1万円を「返す」事が期待出来るからです。 つまり、その借用書は、1万円の価値が有る紙切れとして通用させる事が出来るのです。

 結果として……一見不思議な事ですが、「あなたの手元には(1万円の)借用書、私の手元には1万円」という状況になった時、この2人の世界に在るお金の総額は、2万円に増えたのです。

 この借用書に1万円の価値がある事を担保しているのは、「私が1万円返せるはずだ」という、私に関する信用です。 私の信用が崩れない限り、この借用書の持つ「1万円の価値」も崩れません。

 「きっと返してくれる」と信用される人達の間で、貸し借りの輪をどんどん拡げていくと、全体として持っているお金の総額は、どんどん膨れ上がっていきます。 これが、「経済が良く回っている」という状態です。

 

信用創造

 上記のように、貸し借りをして借用書を作り、「1万円の借用書」に1万円の価値を付けることを、信用創造と呼びます。 お金の貸し借りを仲介し、信用創造する、というのは、銀行の重要な仕事の1つです。

 日本銀行券というのは、日本銀行が発行した「1万円の借用書」なのです。 日本銀行や日本経済に対する信用が、1万円という紙切れの価値を担保しているのです。

 

お金の正体

 つまるところ、お金とは、「信用を数値化した情報」です。 1万円札という紙切れが1万円として使えるのは、日本銀行や日本経済に、それだけの信用があるからです。

 お金は、信用を数値化した情報なので、決まった形はありません。 1万円という信用情報は、1万円札だったり、100個の100円玉だったり、通帳の数字だったり、借用書の数字だったり、商品券の数字だったり、様々な形をとって我々の前に現れます。
 数値情報ですから、コンピュータで処理したり、通信する事も可能です。 証取市場で大量の万札やドル札を使う必要は無いのです。

 「お金持ち」は憎まれる事も多々ありますが、お金持ちは、「社会からそれだけ信用されている」人だ、という事なのです。 お金持ちに対する憎悪は、「彼は私より多くのものを持っている」という事だけでなく、「彼は社会から、私より多くの信用を得ている」という嫉妬心だと言えます。

 

「お金を盗む」とはどういうことか

 お金は、信用に関する情報です。 ですから、お金を盗むというのは、他人の信用を盗み取る事と同義です。 「自分に無い信用を、他人から盗み取る」、あるいは「他人様の借用書を盗む」……それが、「お金を盗む」という行為の意味です。

 また、お金の偽造は、どこの国でも例外なく重罪とされています。 もし、私が書いた借用書が偽造されて出回ったら、借用書の信用は崩壊し、あなたは1万円を回収出来なくなるでしょう。 それを国家に対して行うのが、貨幣の偽造なのです。
 貨幣の損傷も、同様に、重い罪に問われる行為です。 コインに穴を開けてアクセサリーにするとか、列車にひかせてペチャンコにする、なんて事を軽い気持ちでやる人がたまにいますが、これは国家の借用書を破ったり捨てたりする事に等しいわけです。

 

「不景気」とは何か

 当然のことですが、信用創造元の信用が上下すると、借用書の価値も変動します。

 1万円を借りた私を見た人が、「こいつ、全然1万円返せそうにないぞ……」と思ったなら、あなたの持っている「1万円の借用書」の価値は下がります。 つまり、その借用書は1万円で売れなくなるのです。 もし3千円で売れたなら、その時点で、私の信用は3割程度、というわけです。

 こうなると、あなたは、借用書を売らずに持ち続けて、いつか私から1万円返してもらうほうが良い、と考えますよね。 すると、借用書は、売り物にならず、世間に出回らなくなります。

 同じ事が、「日本銀行の借用書である」お金についても起こり得ます。 つまり、銀行が貸しているお金が、回収出来なくなり始めると、上記のような事が、社会全体で起こるのです。 これを不景気と言います。 不景気というのは、社会全体の信用が、下がってしまった状態なのです。

 

利子の正体とバブル景気

 としこ、ではありません。 利子(りし) interest です。 借金に付いて回る、何%かの「上積み返済」の話です。

 今までのたとえ話では、私の書いた借用書は、1万円ポッキリのものでした。 しかし、実際には、借金は1万円ポッキリなどという事はほとんど無く、大抵の場合、利子が付けられます。 つまり、私が返す金額は、1万円より多くなるのが普通です。

 貸した側のあなたから見れば、私の信用が下がるかも知れないというリスク、つまり、手持ちの借用書の価値が下がるかも知れないというリスクは、どうしても拭いきれません。 1万円のはずの借用書が、3千円でしか売れない(3千円の価値にしかならない)かも知れない……ならば、返済が延びれば延びるほど、利子を取りたいと考えるのは、自然な考えです。

 また、1万円では売れそうもない借用書であっても、高い利子が付いていれば、それを買いたいという人が現れるかも知れません。 借用書の利子は、そのまま、「借用書の商品としての魅力・価値」になるのです。 まだ借金を回収出来ていない借用書が売れれば、あなた自身は安心出来ますから、最初から他人に売るつもりで借用書を作るなら、なるべく高い利子を付けた借用書(=売れやすい借用書)を作りたい、……これも、自然な考えです。
 仮に、その借用書が売れなくても、高い利子が付いていれば、いずれは私から1万円以上の返済が見込めるのですから、貸す側としては借用書の利子は高い方が嬉しいわけです。

 ただし、すぐ返してくれる・確実に返してくれる、という事が分かっているならば、利子なんてものは不要か、ごくわずかなもので充分でしょう。
 たとえば、友人と自動販売機で飲み物を買う時、小銭の持ち合わせが無い友人に200円貸したら、きっと、友人は、その日のうちに何とか両替して返してくれるでしょう。 こういう場合は、利子を付ける事は、まずありません。 すぐに・確実に返せる事が分かっているからです。

 ということは、逆に考えると、すぐには返ってこないだろう、とか、確実に返ってくるかどうか心配だ、という借用書については、利子は多めになりやすいのです。 「ばくち」度の高い借用書ほど、利子は高率になるのです。 貸す側としては、まさしくハイリスク・ハイリターンですし、そういう借用書を購入する人にとっても、ハイリスク・ハイリターンです。

 このようなハイリスク・ハイリターン借用書(=高利の金融商品)が大量に取り引きされている間は、利子がどんどん得られるので、一見、儲かっている・好景気のように思えます。 しかし、この取り引きの循環の中で、どこかの信用がいったん失われはじめたり、利子の返済が滞ったりすると、借用書の価値も循環して暴落します。 これがバブル景気の崩壊です。

 つまりバブル景気とは、「よくよく見れば、そんなに信用が無い人(達)に、過度の信用が与えられてしまっている」状態です。 中身が無いのに膨れ上がるので、バブル(泡)と名付けられたのです。 どこかで誰かが「おや、これは、信用が有るとされているけれども、実際には無さそうだぞ」と疑い始めると、もはやバブル景気は保ちません。

 

本当の好景気とは

 我々が銀行に預金したお金は、銀行が第三者に貸す事で借用書が作られ、信用創造されます。 その時に、利子が生まれるので、我々の預金にも利子が付くわけです。 預金の利子が多いと、個人的には嬉しいですが、社会全体として見れば、「ハイリスク・ハイリターン経済を続けている」わけですから、手放しで喜べる話でもありません。

 社会全体で、個人や法人それぞれの信用が高まれば、低利での貸し借りが大量になされるはずで、それこそがバブルではない本当の好景気でありましょう。 それぞれの信用が高い、というのは、誰に関しても、「貸したお金をすぐ返してくれる・確実に返してくれる」見込みが立っている、という事です。 つまり、多くの人が、収入源を持ち、生計を立てられる社会が、好景気の前提なのです。

 各人が信用を持っている状態をいったん作り上げる事が出来れば、それは、ちょっとやそっとの事では壊れないでしょうけれども、それを作り、保つには、不断の努力が必要です。
 もちろん、政府や日本銀行が、そうした市井の地道な努力を、きちんと後押ししたり、評価したりする仕組みを整える事も、同じく大切です。

 

おわりに

 以前、「お金儲けは悪い事ではないか、金持ちは悪人が多いのではないか」というような質問がありまして、その回答を書いたのですが、回答投稿前に質問が取り消されてしまいました。 せっかく書いた内容を捨てるのももったいないと思ったので、「知恵ノート」のネタ元にしてみました。

 お金の価値は信用創造によって担保される、という事は、大人なら当然知っているべき社会常識でありますし、義務教育で教えておくべきことだと私は思うのですが、恥ずかしながら、私がこれを知ったのは、成人し就職した後の事でした。

 「お金の価値は、貸し借りする事、つまり『投資を回収する見込み』によって創造される」、という事は、最も原始的な金融の理屈です。 ですから、「こんな事はとっくに知ってたよ」と仰る方も多いでしょう。
 しかし、たまたま今まで、こうした知識に触れる事の無かった方もいらっしゃると思います。 そうした方々が、この「知恵ノート」をこっそり読んで、「そういう事だったのか…」と得心していただければ、幸いに思います。

 

付記

1.お金の起源~金本位制まで~

 最初から1万円という「価値あるお金」が存在する状況においては、上記に書いた通り、「貸し借りによって価値が生まれる」という事は、お分かりいただけたと思います。

 しかし、もっと昔には、そもそもお金というもの自体が有りませんでした。 動物たちは、お金を用いた貨幣経済を行っていません。 では、お金というモノは、どうやって生まれたのでしょうか。

 人間も、かつては、物々交換経済でした。 少人数の仲間内とか、小さな地域の中だけであれば、物々交換でも、それなりにやって行けるのです。
 物と物を互いの所有者が見て確認してから取り引きするために、物を持ち寄る場所、市(いち) market が世界各地で生まれ、市を中心として、地域社会は発展して行きました。

 市を囲む狭い地域の中では、特に問題も無く経済が回るのですが、別の地域との間で交易をしたい、ということになると、物々交換では問題が生じます。 貴金属や宝石は良いのですが、生鮮食料品や花・動物等は、運搬の間に傷んでしまったり、質が変わってしまうからです。

 この問題を解決する1つの方法は、保存食品の発明でした。 乾物、干物、塩漬、砂糖漬、蜜漬、油漬、発酵食品など、現在の食卓を豊かにしてくれる多様な保存食品が作り出されて行きました。 保存食品が出てきた事により、「ある地方の特産の食べ物」という商品が生まれたのです。

 もう1つの方法は、「長時間の運搬でも質が変わらない・変わりにくいもの」を媒介して取り引きする、という考えでした。 つまり、貴金属や宝石類を、別の何かと交換出来る事にしよう、というアイデアです。
 貴金属には「貴」という字が付いていますが、これは変質しない・しにくい、という意味です。 鉄は錆びてしまいますが金(きん)gold は錆びないので、取り引きの媒介物としては、金(きん)の方が優れているわけです。 古来より、貴金属の格付けは、金>銀>銅ですが、これは、「いかに変質しないかのランキング」です。

 こうして、貴金属や宝石を媒介とする経済が生まれました。 「物と物を交換する」を基本に置き、価値の根源は「物」に有るとし、その価値を取り引きするためには貴金属や宝石を使う、という経済です。 このような経済は紀元前から20世紀の金本位制の終焉に至るまで、数千年も続きました。

 このような経済体制では、お金の価値は、貴金属や宝石類の価値そのものです。 ですから、金本位制では、「国がどれだけ金(きん)を持っているか」で、国の経済力が決まります。

 また、貴金属や宝石を持って行って取り引きすると、輸送が大変であり、輸送中の盗難・事故などのリスクもあったので、兌換券(だかんけん)という紙幣が考え出されました。 兌換券とは、「金(きん)と取り替えられる事が保証されている紙切れ」の事です。 その保証をするのが、国の中央銀行の役割でした。 かつて、1万円紙幣は、「1万円分の金(きん)と交換出来る事を日本銀行が保証する兌換券」だったのです。

 金本位制でない現在、「お金」は信用を数値化したもので、その偽造は「信用に傷を付けた」という意味で犯罪になるのですが、兌換券の時代における偽造は、「実際には有りもしない金(きん)の幻を作り出した」という犯罪だったのです。

2.お金の起源~変動相場制へ~

 金本位制では、各国の金保有量が、そのまま各国の経済力を決めます。 金(きん)に、ある意味で絶対的な価値を認めているためです。 金本位制の世界では、各国に独自の通貨があっても、それぞれが金(きん)と兌換(だかん)なのですから、本質的には金(きん)が世界統一貨幣であり、各国の円とかドルとかポンドは、金(きん)の仮の姿でしかない、と言えます。 つまり、金本位制の世界では、各国の経済が、金(きん)をベースにして、緊密に結びついているのです。

 金本位制は分かりやすく、すっきりとした経済体制ですが、問題が無いわけではありませんでした。

 たとえば、日本の経済が良くなって、どんどん儲かったとしましょう。 金本位制では、それは他国の金(きん)が日本にどんどん入ってくる事を意味します。
 しかし、いつまでも儲かっているわけではなく、不景気になる事もあります。 すると今度は、国内の金(きん)が、どんどん外国に流出して行きます。

 これはこれで分かりやすいですが、経済状況の上下に伴って、いちいち金(きん)そのものをやりとりするのは、国同士の間では、大変です。 個人間のレベルならともかく、国同士のやりとりは巨額ですから、やりとりに必要な金(きん)の量も多くなり、輸送中のリスクも大きなものです。

 「国内では紙幣という兌換券を使っているのだから、国同士で兌換(=金との交換が保証されるもの)権利を発行し合う方が都合が良いではないか」という考えが生まれるのは、当然の事でした。
 金(きん)そのものを動かさなくても、兌換な何かを動かせば良い……この考えによって、為替手形のやりとりによる国際間経済が実現しました(国内の兌換紙幣は、言い換えれば「国内で通用する為替手形」だったのです)。

 ところで、もしも、ある2国の間で戦争が始まると、その2国間では為替手形は無効になるおそれが強いでしょう。 兌換の約束を無くしてしまえば、金(きん)を多く持っている方が、明らかに「強い」からです。
 1国と1国の間であれば、金保有量の少ない方が戦争を極力避けようとするでしょうけれども、なんと、世界大戦というものを2度も起こしてしまった各国は、「金本位制と、国際為替手形では、やっていけないかも知れない……」と考え始めます。

 世界大戦の時、各国は、金(きん)の国際流通をストップしました。 この結果、金保有量が少ない国では、紙幣の価値を裏付けるもの(=金)が、手に入らなくなってしまいました。 兌換だったはずの紙幣が、兌換でなくなってしまう、つまり価値を失ってしまったのです。

 こうした深刻な経済問題を経験した各国は、各国なりの自由な経済活動を行うためには、金本位制は足枷(あしかせ)なのではないか……という認識を持ち始めました。
 また、FRB議長を務めたベン・バーナンキ氏により、金本位制から離脱した国ほど経済状況が向上する事が証明されました。

 1971年には、当時最大の金保有国であった米国が金本位制を放棄し(ニクソン・ショック)、それから2年足らずの間に、世界経済は変動相場制へと移行しました。

 変動相場制の経済では、貨幣の価値が上下します。 金(きん)のような「絶対的な価値の基準」が無いからです。 日本経済が強くなれば円が強くなり、米国経済が強くなれば米ドルが強くなり、円と米ドルの価値関係(相場)は常に変動します。
 経済が強い、というのは、その国の経済状態の信用が高い、という事です。 その国にお金を貸しても、ほぼ確実に返済されるはずだ、と認識されているという事です。 よって、経済の強い国の通貨は、利子が低くなります。
(転載以上)