khurata’s blog

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死の予告になっている某連載記事

 ふだんあまり書かないブログで、たまに書く事がこんなのはどうなのかと自分でも思うが、以前から思っていた事を書く。

 

 養老孟司氏は、ほどなく亡くなられるだろうと思っている。 そして、その死から1年経つかどうかという頃、楳図かずお氏も亡くなられるだろう。

 

 ――読売新聞に「時代の証言者」という連載コラムがある。 今まで数々の著名人が記事を寄せていて、どれも実に興味深く読ませてもらっているのだが、このコラムには不穏なジンクスがある。

 それは、「連載していた方々は、連載終了からほどなくして全員亡くなられている」という事である。

 

 人生の終点に近い方々を選んで連載をお願いしているのだから、そうなるのが自然だ、と考える事はもちろん出来るが、それにしても、「人によっては連載終了後も長生きする」という事例が有っても良さそうに思われる。

 これは私の勝手な想像でしかないが、自分の人生を振り返って「ミニ伝記」として形を残した、という、ある種の「区切り感」が、その人の命数を尽きさせてしまうのではないか……と思っている。

 

 つい先日、養老孟司氏が「時代の証言者」の連載を終えた。 そして今、楳図かずお氏が連載を始めている。 いったいどなたが、このジンクスを最初に破るのか、いち読者としてかなり気に掛かるところである。

(以上)

元ストーカーの意見は貴重である

 今日話題になってからほんの数時間で各サイトとも元記事を削除してしまった。

スッキリ 元ストーカー 専門家 - Google 検索

 福岡・博多駅の近くで、ストーカー化した男性が元交際相手の会社員女性を刺殺した事件について、日本テレビ系「スッキリ」が「被害者支援や加害者の更生支援を行う、元ストーカーの専門家」を招き、ストーカー心理について語ってもらったところ、ネット上でいくつかの疑問の声が上がった、らしい。

 くだんの「元ストーカー」氏は、警察がストーカー規制法に基づく禁止命令を出す前に「逮捕して治療に結び付けるべきだった」、「ストーカー心理っていうことに対して警察官は理解してなさすぎ」「理解してないから後手後手に回る」などと語ったそうである。

 これに対して、ネットでは

a.「元ストーカーをご招待して、ニュースにするあたり、世間の感覚とどんだけズレてるのかと思う。怖すぎ 話題になれば、なんでも良いんか?」
b.「痴漢被害で元痴漢の専門家出すのと同じレベルで非常識」
c.「元ストーカーがストーカー専門家として番組で加害者側の心理とか色々話してるの見て怖かった」
d.「元ストーカーの人がコメンテーターで出てくるの怖すぎるw やめてー」

などのコメントが有ったそうである(中日スポーツ記事紹介ページより転載)。

 これらのコメントがネット民の総意であるとか、意見の代表であるとは思わないが、こういう方向の感覚や意見が目立つとは思う。 しかしこうした方向の意見は、ややもすると「危険思想」だと私は考える。

 

 たとえば米国では、巨大な被害を生んだネット犯罪者が司法取引で FBI に協力し事件の捜査を助けた、という実例が有るし、我が国でも元泥棒が空き巣被害を未然に防ぐ活動で人々から感謝されている。 やっぱり、何だかんだ言っても、実際に実行した経験者の知識や心理は、それをやった事の無い警察や検察よりも「頼りになる」。 小説『鬼平犯科帳』では長谷川平蔵が元盗賊を重用していたが、元犯罪者だからこそ分かる犯罪心理や手口、犯罪者のネットワークというものが有ることは否めない。

 すでに法的な刑を終えた彼らの経験や知識に耳を傾け、今後の犯罪を未然に防ごうという姿勢は、なんら非難されるものではないと私は考える。 現在実行中の「現役」犯罪者の言葉に耳を貸せ、というのではない。 すでに法的に刑を終えた人に対して就職差別や結婚差別をする社会は、法治社会とは言い難い。
 きわめて有用な情報を持つ彼らの言葉に耳を傾け、対策を共に考えることは、「実行犯の経験が無い」警察の考えよりも、はるかに実践的であるはずだ。

 そう考えると、先ほど挙げたネットの反応は、危ういものであると言わざるを得ない。 上記4つのコメントをまとめれば、「怖いものは見たくないからやめろ」しか無いであろう。 しかし、そんな怯えた子供みたいな姿勢で、どうやってこの社会から犯罪を無くせるのか。 「見たくない」「非常識だ」「やめて」と主張したって、犯罪防止には何の役にも立たない。 元ストーカー氏の言動のほうが、はるかに有用だ。 以下、「各個撃破」を試みる。

 

a.話題になった方が良い。 元ストーカー氏をスタジオに「出演」させて話させるのではなく、フリップを用いて文章で紹介する方が、「世間の感覚」的には、より適切だったかも知れないが、元ストーカー氏が堂々と話をする事は法治社会では保証されるべきだし、ショッキングな形である方が話題が広まりやすく、被害も防ぎやすくなる。

b.その通り、それと同じレベルである。 それが非常識だと言いたくなる気持ちも分からないではない。 しかし元ストーカー氏が公共の場で話をする事は、法治社会では何の問題も無い行為である。 常識を持ち出して言論封殺・表現規制するよりも、実践的な知識や、「本物の心理」を知り、新しい被害者と加害者を作り出さないようにする事の方がはるかに重要である。 おそらくそれはずっと続くイタチごっこなのだが、知っていれば防げるはずの悲劇を、知らさないままでおくべきだとは、私は考えない。

c.見て怖かった、と言うのはもちろん自由だ。 ならば見なければ良い。 悲惨な犯罪や、卑劣な犯罪者の心理、そうした「怖いもの」を一切知らずに死ぬまで過ごすのも、ひとつの人生であるし、それを否定はしない。 しかし、知っていれば遭わずに済む被害というものは確かに有る。 犯罪者の心理などは、その最たるもので、それを知ることは一種の「保険」だ。 一切の保険に加入しなくたって、事故や病気や犯罪に1度も巻き込まれなければ良いのだ、という意見を私は尊重するが、私もそうするとは言えないし、誰かにそうしろとも言えない。

d.怖すぎるの後に w が付いているあたり、本当に怖がっているのか、という疑問は有るが、怖がるのは自由だし、放送を「やめて」と言うのも自由である。 だが、他者に対して「やめて」と依頼・命令しなくても、自分が見るのをやめればそれで済むのである。 自分が見たくないものは決して見せるな、と言うのはもちろん自由だが、他者には、その依頼・命令を聞かない自由も有る。 もし本心からやめさせたければ、番組のスポンサーに提言するほうが良い。

 

 もう10年以上も前に、文科省「政府においては、多様な機会が与えられ、仮に失敗しても何度でも再チャレンジができ、『勝ち組、負け組』を固定化させない社会の構築を目指」す、と言っているのだが、「ネット世論」がこんな調子では、10年経とうと20年経とうと、「再チャレンジできる社会」など、訪れるわけがない。
 いったん犯罪者となった人間の知見を「世間の感覚とズレてる」「怖すぎ」「非常識」「やめて」と排斥するような人達が、そのような社会を作り上げることが出来るとは、とても考えられない。

 犯罪者とは、刑法や特別刑法を破る人間であるが、元犯罪者とは、それによる刑罰を受け、法的にはフラットになった人間である。 刑を終えた人間が、ふたたび法治社会という場に復帰する資格を、法律は保証している。
 だが、上に挙げたような「ネット意見」の持ち主は、そんな法治社会を否定したいのだとしか思えない。

 サッカーで反則をし、レッドカードで退場になった選手が、それで引退したという話を、私は聞いた事が無いが、「ネット民」の方々は、

「レッドカードを受けた選手は引退して、サッカーの場に二度と立ち入って欲しくない、そんな反則をした人の話を聞くなんて世間の感覚からズレてて非常識だし、次の次の試合から再出場できるルールなんて怖すぎるw やめてー」

と主張しているように私には見える。

 ルールを破ったら即引退、法律を破った人の意見など聞かない……これが危険思想で無くて何であろう。

 

 さらに付言するならば、そういう意見を言う人達には、想像力が決定的に欠けている。 刑法犯なんて、誰でも、明日にでも、なってしまう可能性が常に有るのだ。 「怖い」「やめて」という言葉は、明日の自分に、明日の家族に、明日の友人に降り掛かるかも知れないのである。

 「自分や知人が刑法犯なんてなるわけがない」と、誰もが思うだろう。 しかしそれは、多くの犯罪者も、犯行前に持っていた「無自覚な常識」なのだ。

 くだんのストーカー刺殺犯だって、被害者と知り合う前から、「自分は殺人をするのだ、絶対に誰かを殺してやるのだ」と思っていただろうか。 私は、そんなことは無かったはずだと考えるのだが、上記に挙げた「ネット民」の皆さんは、そう考えないのだろうか。

 なればこそ、ストーカーを「実際にその立場で経験した」人物の心理や言葉は、とても価値が有るはずだ。 どんなにしつこく陰湿なストーカーだって、「対象」と出会うまではストーカー「では無かった」のだから。 それが、どういう心理的経緯をたどってストーカー「になっていった」のか、それを最も知っているのは本人であるし、それを少しでも垣間見る事は、痛ましい犠牲をこれ以上出さないためには、是非とも必要なことであると私は強く思う。

 それを「怖い」だとか「非常識」だとか「やめて」と言うのは自由だが、そんな姿勢や主張で、未来のストーカー被害・加害を無くすことは、決して出来まい。
 現状維持したいだけの「お気持ち」にとらわれていては、社会をより良くする変化など起こせるはずはない。

 逆の言い方をするならば、「世間の感覚」や常識で構成されているこの社会から、こんなストーカー殺人者が出てきたのはなぜなのか、そこを考えるべきなのである。 「世間の感覚」や常識を「正しい」としているうちは、社会は変わらないし、同じようなストーカー殺人者が再び出現する大きな可能性を後に残したままになる。

 かつてバルザックは、

「指導者は世論の誤りを是正できなくてはならない。たんに世論を代表するだけでは、その責務を果たすことはできない」

と言った。 報道が指導者気取りであれば、それはそれで問題なのだが、このバルザックの言葉は、「世間の感覚」や常識を重視していては、社会をより良く変えることなど出来ない、という事を言っているのであろう。
 「スッキリ」関係者は、こんな事で萎縮するべきではないし、番組スポンサーも、こんな「感覚」や常識に付き合う義理は無い。 何度でも言うが、そんな事をしたって、未来の加害者も被害者も無くすことは出来ないのだから。

メタバースが普及しない…

 この記事を読んで思うことをつらつらと書く。

www.sbbit.jp

 この記事は楽観的だが、メタバースセカンドライフのように「ひっそりと続く趣味人の領域」で在り続けると私は予想している。
 似たような予想をしている知人さんの意見を聞くと、「価格が高い」とか「パッと使える環境が整っていない」などの理由付けが有り、それももっともだと思うのだが、私が考える理由は別のものだ。

 

 たとえば自家用車は、メタバース設備とは比較にならないほど高価だし、維持費もかなりのもので、取得や運転には面倒な免許や法律の勉強が必要だし、事故時の身体・生命・財産のリスクはきわめて大きいのに、我が国をはじめとして多くの国で普及している。
 自家用車やバイクに払えるカネと労力を、人々はなぜ安くて安全なメタバースに注ぎ込まないのか、そこに「メタバースが普及しない理由」が在る、と私は考える。

 

 当たり前のことだが、クルマやバイクでなければ出来ないことは、クルマやバイクが無ければ実現できない。 いくら IT 技術や VR 技術が発展しようとも、家族や友人を乗せ、荷物も載せて、雑談しながら遠乗りしたり、旅行したり、という事は、実際の自家用車を使ってはじめて実現できる。 本物のクルマを使わなければ経験できない体験というものが確かに有る事を、我々は誰もが分かっている。 その体験を我が物にしたくて、我々は何十万とか何百万というカネを自家用車に注ぎ込む。

 翻ってメタバースはどうだろうか。 メタバースで出来る事は、現実の生活の模倣もしくは延長線上の事である。 模倣の範囲は現実の生活よりきわめて広くもあるし、また狭くもある。
 メタバースは、一瞬で外国の観光地や月面旅行に出掛けることが出来る一方で、キャンプ地でするバーベキューを現実のように楽しむことは出来ない。 湿度と木々の香りを含む風、用具設営の疲れ、炭火の熱、肉の脂が炭火に落ちて上がる香ばしい煙、飛びはねる油、野菜の美味しさ、後片付けで手に付く汚れの面倒さ、そうしたものはまだメタバースには無いが、クルマを使えば体験できる。

 思うに、メタバースという命名それ自体にも、問題が含まれている。 今のところ、メタバースで出来ることは、メタ(超)バースではなくオルト(代替)バースだ。 オルトバース「でしかないもの」に、わざわざメタバースという「なんだかすごそうな」名前を付けたところに、私は、命名者が内心に持つ後ろめたさのようなものを感じ取るし、また、メタバースという名を広めれば広めるほど、「実際はオルトでしかない」後ろめたさを、人々に広めてしまうのではないかと思う。

 

 考えようによっては、自家用車の出現こそは、まさに「ある種のメタ(超)バース」を実現する手段の出現であった。 クルマを持てば、クルマの無い人生では体験し得ない人生が拓かれるのだから。 だからこそ世界で多くの人々が、決して安くもない自家用車を買い求めたのではなかろうか。

 実体験としての新しい人生を提供し得ないメタバースは、「画像と音だけならスマホ画面で良いじゃないか」という結論を、多くの人に抱かせるだろう。 スマホはコンパクトだし、不格好で重くて不快なヘッドセットを付けたり、周囲に空間を確保したりする必要も無い。 オルトバースを体験するために、多くの人々がどちらを選ぶかは、ほとんど自明だ。

バブルの時代(個人の感想です)

 これまた先日、Mastodon 日本語話者界隈の一部で、いわゆるバブル景気時代についてのトゥートがいくつか流れていた。 その中に、

「バブルを知っている人はやっぱりあの時代はよかったって思うんだろか?」

というものがあって、これはなかなか複雑な問いなのだが、良かったと思う人は少なく有るまい。

 個人的には、バブル「が」良かった、のではなく、「あの頃」それ自体が、良かった、という感覚を持っている。

 '80年代後半から '90年代前半、つまり昭和後期から平成初期は、もしかすると戦前の大正時代末期から昭和前期に似ていたのではないか、という気がする。

 バブル経済が崩壊しつつも、
阪神淡路大震災東日本大震災も知らないし、
地下鉄サリン事件も知らない、
9・11も知らない、
インターネット自体希少だったのでネットの誹謗中傷や激論もほぼ無く、
韓国はまだ激しい反日でもなく、
中国は人民服を着た大量の庶民が自転車通勤していて、
北朝鮮はミサイルどころか何も出来ない国で、
スマホどころか携帯電話が無い俗世の時間はゆったりと流れ……

ずっとこのまま平和で平穏な生活が続くと思っていた、そんな時代だった。

 この時代の空気感を実によく表していたな、と思うのは、当時のコカ・コーラの TV CM だ。 当時を知らない人でも、これを見れば、なんだか良い時代だったかも、と思う事は有ると思う。

https://www.youtube.com/watch?v=W0k2VFPxd14

 もうひとつ、映画『私をスキーに連れてって』も「時代の代表」作である。
https://www.youtube.com/watch?v=CpYvwPGpDaI

 あの頃を経験した者として、あの時代に戻りたいか、と問われれば答えは「否」だが、1週間限定で戻れるならば戻ってみたい。

女性の頭脳労働者

 先日、Mastodon の日本語話者界隈の一部で、女性の頭脳労働者・技術者の話が飛び交っていた。 どういう話だったのか、正確な流れは追えなかったけれども、おおむね、「昔は女性の頭脳労働・技術者は珍しくなかったと言うが本当なのか」という話だったように見えた(違ったら申し訳無い)。

 ざっと見た感じ、その話をしていた方達はだいたい若く、昔の女性労働についてのイメージが農業や主婦業にとどまっているように見受けられた。

 しかし、高齢者である私の思い出をたどれば、かつて「手工業」や「手仕事」は、だいたい女性の仕事だった。

 電話交換手、タイピストENIAC 出現前の大量の弾道計算、初期のコンピュータープログラムのパンチャーさん、架(「が」、いわゆるラックマウントのこと)の大量配線、ラジオやテレビの組み立てライン、……これらは洋の東西を問わず、ほぼ女性の仕事だった。 今も iPhone の中国工場勤務は、ほとんど女性な気がする。

 ちなみに、私が「女性の頭脳労働者」と言われて真っ先に思い出すのは、次の2人だ。

 まずは COBOL 言語の生みの親、グレース・ホッパー米海軍准将(COBOL は「Java に取って代わられる」と言われ続けながら、今もって現役で使われ続けるプログラミング言語)。

 次は DNA が2重らせん構造である決定的な証拠を握った、ロザリンド・フランクリン氏(氏がノーベル賞を受賞できなかったのは、ノーベル賞史上最大のスキャンダルだと私は思っている)。

 もちろんこれだけではなく、19世紀からこっち、数知れぬ多くの女性頭脳労働者・技術者が働き続けていて、それで現代社会は回っている。

 男女間の差別を煽るような議論において、「もし男性がいなくなったら女性は社会基盤を運用できないのではないか」という話が出る事があるが、意外とちゃんとやるのではないか、と私は思っている。 仕組みに乗るだけのラクをしたい、という人達もいて、仕組みを作りたい、という人達もいる、それは男女ともにそうだろうと思うからだ。