khurata’s blog

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元ストーカーの意見は貴重である

 今日話題になってからほんの数時間で各サイトとも元記事を削除してしまった。

スッキリ 元ストーカー 専門家 - Google 検索

 福岡・博多駅の近くで、ストーカー化した男性が元交際相手の会社員女性を刺殺した事件について、日本テレビ系「スッキリ」が「被害者支援や加害者の更生支援を行う、元ストーカーの専門家」を招き、ストーカー心理について語ってもらったところ、ネット上でいくつかの疑問の声が上がった、らしい。

 くだんの「元ストーカー」氏は、警察がストーカー規制法に基づく禁止命令を出す前に「逮捕して治療に結び付けるべきだった」、「ストーカー心理っていうことに対して警察官は理解してなさすぎ」「理解してないから後手後手に回る」などと語ったそうである。

 これに対して、ネットでは

a.「元ストーカーをご招待して、ニュースにするあたり、世間の感覚とどんだけズレてるのかと思う。怖すぎ 話題になれば、なんでも良いんか?」
b.「痴漢被害で元痴漢の専門家出すのと同じレベルで非常識」
c.「元ストーカーがストーカー専門家として番組で加害者側の心理とか色々話してるの見て怖かった」
d.「元ストーカーの人がコメンテーターで出てくるの怖すぎるw やめてー」

などのコメントが有ったそうである(中日スポーツ記事紹介ページより転載)。

 これらのコメントがネット民の総意であるとか、意見の代表であるとは思わないが、こういう方向の感覚や意見が目立つとは思う。 しかしこうした方向の意見は、ややもすると「危険思想」だと私は考える。

 

 たとえば米国では、巨大な被害を生んだネット犯罪者が司法取引で FBI に協力し事件の捜査を助けた、という実例が有るし、我が国でも元泥棒が空き巣被害を未然に防ぐ活動で人々から感謝されている。 やっぱり、何だかんだ言っても、実際に実行した経験者の知識や心理は、それをやった事の無い警察や検察よりも「頼りになる」。 小説『鬼平犯科帳』では長谷川平蔵が元盗賊を重用していたが、元犯罪者だからこそ分かる犯罪心理や手口、犯罪者のネットワークというものが有ることは否めない。

 すでに法的な刑を終えた彼らの経験や知識に耳を傾け、今後の犯罪を未然に防ごうという姿勢は、なんら非難されるものではないと私は考える。 現在実行中の「現役」犯罪者の言葉に耳を貸せ、というのではない。 すでに法的に刑を終えた人に対して就職差別や結婚差別をする社会は、法治社会とは言い難い。
 きわめて有用な情報を持つ彼らの言葉に耳を傾け、対策を共に考えることは、「実行犯の経験が無い」警察の考えよりも、はるかに実践的であるはずだ。

 そう考えると、先ほど挙げたネットの反応は、危ういものであると言わざるを得ない。 上記4つのコメントをまとめれば、「怖いものは見たくないからやめろ」しか無いであろう。 しかし、そんな怯えた子供みたいな姿勢で、どうやってこの社会から犯罪を無くせるのか。 「見たくない」「非常識だ」「やめて」と主張したって、犯罪防止には何の役にも立たない。 元ストーカー氏の言動のほうが、はるかに有用だ。 以下、「各個撃破」を試みる。

 

a.話題になった方が良い。 元ストーカー氏をスタジオに「出演」させて話させるのではなく、フリップを用いて文章で紹介する方が、「世間の感覚」的には、より適切だったかも知れないが、元ストーカー氏が堂々と話をする事は法治社会では保証されるべきだし、ショッキングな形である方が話題が広まりやすく、被害も防ぎやすくなる。

b.その通り、それと同じレベルである。 それが非常識だと言いたくなる気持ちも分からないではない。 しかし元ストーカー氏が公共の場で話をする事は、法治社会では何の問題も無い行為である。 常識を持ち出して言論封殺・表現規制するよりも、実践的な知識や、「本物の心理」を知り、新しい被害者と加害者を作り出さないようにする事の方がはるかに重要である。 おそらくそれはずっと続くイタチごっこなのだが、知っていれば防げるはずの悲劇を、知らさないままでおくべきだとは、私は考えない。

c.見て怖かった、と言うのはもちろん自由だ。 ならば見なければ良い。 悲惨な犯罪や、卑劣な犯罪者の心理、そうした「怖いもの」を一切知らずに死ぬまで過ごすのも、ひとつの人生であるし、それを否定はしない。 しかし、知っていれば遭わずに済む被害というものは確かに有る。 犯罪者の心理などは、その最たるもので、それを知ることは一種の「保険」だ。 一切の保険に加入しなくたって、事故や病気や犯罪に1度も巻き込まれなければ良いのだ、という意見を私は尊重するが、私もそうするとは言えないし、誰かにそうしろとも言えない。

d.怖すぎるの後に w が付いているあたり、本当に怖がっているのか、という疑問は有るが、怖がるのは自由だし、放送を「やめて」と言うのも自由である。 だが、他者に対して「やめて」と依頼・命令しなくても、自分が見るのをやめればそれで済むのである。 自分が見たくないものは決して見せるな、と言うのはもちろん自由だが、他者には、その依頼・命令を聞かない自由も有る。 もし本心からやめさせたければ、番組のスポンサーに提言するほうが良い。

 

 もう10年以上も前に、文科省「政府においては、多様な機会が与えられ、仮に失敗しても何度でも再チャレンジができ、『勝ち組、負け組』を固定化させない社会の構築を目指」す、と言っているのだが、「ネット世論」がこんな調子では、10年経とうと20年経とうと、「再チャレンジできる社会」など、訪れるわけがない。
 いったん犯罪者となった人間の知見を「世間の感覚とズレてる」「怖すぎ」「非常識」「やめて」と排斥するような人達が、そのような社会を作り上げることが出来るとは、とても考えられない。

 犯罪者とは、刑法や特別刑法を破る人間であるが、元犯罪者とは、それによる刑罰を受け、法的にはフラットになった人間である。 刑を終えた人間が、ふたたび法治社会という場に復帰する資格を、法律は保証している。
 だが、上に挙げたような「ネット意見」の持ち主は、そんな法治社会を否定したいのだとしか思えない。

 サッカーで反則をし、レッドカードで退場になった選手が、それで引退したという話を、私は聞いた事が無いが、「ネット民」の方々は、

「レッドカードを受けた選手は引退して、サッカーの場に二度と立ち入って欲しくない、そんな反則をした人の話を聞くなんて世間の感覚からズレてて非常識だし、次の次の試合から再出場できるルールなんて怖すぎるw やめてー」

と主張しているように私には見える。

 ルールを破ったら即引退、法律を破った人の意見など聞かない……これが危険思想で無くて何であろう。

 

 さらに付言するならば、そういう意見を言う人達には、想像力が決定的に欠けている。 刑法犯なんて、誰でも、明日にでも、なってしまう可能性が常に有るのだ。 「怖い」「やめて」という言葉は、明日の自分に、明日の家族に、明日の友人に降り掛かるかも知れないのである。

 「自分や知人が刑法犯なんてなるわけがない」と、誰もが思うだろう。 しかしそれは、多くの犯罪者も、犯行前に持っていた「無自覚な常識」なのだ。

 くだんのストーカー刺殺犯だって、被害者と知り合う前から、「自分は殺人をするのだ、絶対に誰かを殺してやるのだ」と思っていただろうか。 私は、そんなことは無かったはずだと考えるのだが、上記に挙げた「ネット民」の皆さんは、そう考えないのだろうか。

 なればこそ、ストーカーを「実際にその立場で経験した」人物の心理や言葉は、とても価値が有るはずだ。 どんなにしつこく陰湿なストーカーだって、「対象」と出会うまではストーカー「では無かった」のだから。 それが、どういう心理的経緯をたどってストーカー「になっていった」のか、それを最も知っているのは本人であるし、それを少しでも垣間見る事は、痛ましい犠牲をこれ以上出さないためには、是非とも必要なことであると私は強く思う。

 それを「怖い」だとか「非常識」だとか「やめて」と言うのは自由だが、そんな姿勢や主張で、未来のストーカー被害・加害を無くすことは、決して出来まい。
 現状維持したいだけの「お気持ち」にとらわれていては、社会をより良くする変化など起こせるはずはない。

 逆の言い方をするならば、「世間の感覚」や常識で構成されているこの社会から、こんなストーカー殺人者が出てきたのはなぜなのか、そこを考えるべきなのである。 「世間の感覚」や常識を「正しい」としているうちは、社会は変わらないし、同じようなストーカー殺人者が再び出現する大きな可能性を後に残したままになる。

 かつてバルザックは、

「指導者は世論の誤りを是正できなくてはならない。たんに世論を代表するだけでは、その責務を果たすことはできない」

と言った。 報道が指導者気取りであれば、それはそれで問題なのだが、このバルザックの言葉は、「世間の感覚」や常識を重視していては、社会をより良く変えることなど出来ない、という事を言っているのであろう。
 「スッキリ」関係者は、こんな事で萎縮するべきではないし、番組スポンサーも、こんな「感覚」や常識に付き合う義理は無い。 何度でも言うが、そんな事をしたって、未来の加害者も被害者も無くすことは出来ないのだから。