先日、東京五輪の開会式典を統括する立場の人物が、女性芸能人をブタに見立てる構想を持ち出した事を契機に首を切られた。 「人間をブタに見立てる」発言は、たとえ身内の雑談であっても発覚すれば社会から糾弾される……そういう風潮が今や強く在るという事だろう。
「人間をブタに見立てる」という話から私が思い起こすのは、革新系の方々がよく言う「ネトウヨ達は『肉屋を支持する豚』」という喩えである。
この喩え自体は、うまく言い当てていると私は思っているのだが、他人様をブタに見立てるという構図は、やはり格好がよろしくない、とも思っていた。 なぜこのような過激な喩えをするのか、発言しているご本人に訊いてみたところ、「それくらい過激な事を言わなければ世の中を変える事は出来ないし、のんびり構えてはいられないから」との由であった。
とは言え、この喩えを発言する人は、他の人達からは「あの人は対論の相手を人間扱いせず下に見る人物だ」と思われてしまうだろうし(これは革新系が選民思想と指弾される遠因ともなろう)、そうした発言で社会的地位を失う事も有るという事実・時流が見えていないのか、とも思われてしまうのではないだろうか。
パヨクとかサヨクと揶揄される事も多い革新系の方々だが、実際に接してみると、非常に勉強をしておられ、理論構築には隙が無い。 私よりはるかに若い方であっても、私なぞまったく足許にも及ばないほどの読書量と知識量を持ち、人間社会の未来と完全平和の理想について、熱い思いを強く抱いておられる。 中には、自らの欲のために革新運動を利用している輩も居るであろうが、それは全体から見ればごく少数であるし、そういう事をする人は保守側にも居る。 そもそも革新系思想が多くの人を惹き付けてやまないのは、厚い知識に裏付けられた熱い理想に依るところであろう。
しかし、私は浅学非才の身にして、常々思うのである。 隙の無い完璧な理論による理想社会というものは、実現できない幻であろう、と。
我々人間は、動物であり、命を持った生物である。 「生きている」という状態は、常に矛盾を内在している状態であり、それゆえに、動物の世界も、人間社会も、生きている限りは、常に矛盾を抱え、それを永遠に取り繕い続けなければならない宿命を負っている。
精神科医・中井久夫氏は、「成熟とは、『自分がおおぜいのなかの一人(ワン・オブ・ゼム)であり、同時にかけがえのない唯一の自己(ユニーク・アイ)である』という矛盾の上に安心して乗っかっておれることである」と言われた。 作家・池波正太郎氏は、『鬼平犯科帳』の主役・長谷川平蔵に「人間(ひと)とは、妙な生きものよ。悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事をはたらく。こころをゆるし合うた友をだまして、そのこころを傷つけまいとする」と言わせた。
細菌や細胞1つの単位で見ても、1人の人間という単位で見ても、自治体、国家社会、人類全体という単位から見ても……どの単位で見ても、それが生きている以上、そこには常に矛盾が存在する。 1つの矛盾を解消しようとすると、「自動的に」新しい矛盾が生まれる、それが「生きている」という事だからであろう。 生命は、このようにして矛盾を取り繕い続ける事で生存しているがゆえに、我々は常に矛盾を内在させたまま、それを取り繕い続けなければならない。
ところが、革新系の方々は、どうやら矛盾というものを、ひどく嫌っているように、私には見える。 他人の論に矛盾が有ればそこを追及し、自らの理論と生き方から矛盾を排除し、従って他人の生き方や社会の有り様にも矛盾が無いようにと努める。 それは美しく、潔く、気高く、尊いものとして、人の目には映るだろう。 しかしそれは、生き物の生き方としては、「有り得ない」のではないか。
完璧な社会理論というものが在ったとして、それはその時、その時代だけなら通用しよう。 しかし10年も経てば、おそらく通用しなくなってしまうのではないか。 人も、人の世も、生き続け、矛盾を取り繕い続け、変容していくからである。 誰かが常に持っている欲、科学上の発見、技術の発展、自暴自棄になった人の突飛な行動、未知の病気、自然災害など、世の中を変える要因は数え切れないほど在り、しかもその全てを予測する事はできない。 そのため、ある時点で完璧だった社会理論は、次の世代にとっては完璧なものではなくなり、「完璧『だった』理論」は常に増改築を迫られる。
過去の言動と現在との矛盾を非難する姿勢は、他人の成長や進歩を許容しないという態度とも言える。 しかし人は勝手に学び、成長し、変容し続ける。 それには10年も要しないかも知れない。 たった1冊の本を読んだ今日と、まだ読んでいない昨日との間で、人の考えは違ってくる事もある。 それを矛盾と指弾し追放する事が、何になると言うのか。
結局のところ、生き延びられるのは、――自らが矛盾を内包している事に気付くか気付かないかに関わらず――自らを変え続ける者だけであろう。 完璧な存在は永続するものではなく、時代と共に心中するしかない、と私には思える。
革新系に限らずとも、他人が無矛盾である事、無謬である事に、現在の我々はこだわりすぎている、と私は感じる事がある。 配達や外食店のちょっとしたミス、手続きの誤り、小さなトラブルや言葉尻を捉えて大きく騒ぎ立て、いかに自分が不利益を蒙ったかを喧伝する――そんな人達が目に付くようになったのは、多分にネット社会の発達に依るのであろうが――、そんな事を続けて、有用な人物を追い落としても、全体の利益を損なうだけではなかろうか。 99個の成果を挙げても、1個のミスで立場を失う、という事が「普通」になった社会は、きっと、誰にとっても暮らしにくい社会のはずである。
偉そうな言い方になってしまうが、立場を追われた元・開会式典統括者は、この騒ぎを成長のための良い機会と捉え、自らを変え、見事に返り咲いて欲しい……私はそう願うのである。