khurata’s blog

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ダーウィニズム進化論についての雑記

 生物学を少し知っていると、いわゆる進化論について、世間では細かい誤解がいろいろある事に気付く。 そしてその細かな誤解の多くは、おそらく言葉に起因するものであろう事も。
 たとえば遺伝子の劣性とか優性は(これらは最近になってようやく言い換えされるようになってきたが)日本人の多くに、長きにわたって間違った認識を植え付けてきた。 それと似た事が進化論についても言える。

 

 生物の進化それ自体については、ほぼ疑う余地はない。 「暗黒バエ」実験や、地質学的な化石調査、あるいは新型コロナウイルスの度重なる「進化」など、進化を肯定する証拠には事欠かない一方で、進化を否定する証拠は見つかっていないからである。

 

 しかし、この「進化」という日本語訳は、やや問題があると思う。 なぜならば、「進化」と言うと、なんとなく、それ自身の意志でそうした、とか、より優れた者になる、というような感じを受けかねないからである。
 「環境に適応した」とか「適者生存」という言葉にも、同様な問題があると思う。

 

 自然界における生物の進化は遺伝子 DNA あるいは RNA の変異によって起きる。 つまり進化とは単なる変化に過ぎず、より優れたもの、より強いものになるという保証は無い。 自然界における変異はランダムであり、変異の種類、変異の箇所に、なんらの意図が介入することは無い。 人間が放射線や薬品で「変異を意図的に起こす」場合でも、その種類や場所を意図的に操作する事はできなかった(この事は、確率論的に遺伝子の位置を割り出す事には役だった。また、だからこそ「ゲノム編集」は真に画期的だったのだ)。

 そして、変異した遺伝子が発現するかどうかは「運」のようなものだし(致死性の変異であればそもそも生まれ出ることすらかなわない)、発現した「新種」が、その環境で生き残るかどうかも「運」まかせである。

 つまり適者生存という概念は、適していた「から」生き延びた、と理解するよりも、たまたま生き延びることができた、と解釈する方が妥当である。

 

 以上の単純な法則が、現在の地球上の、きわめて多様性に富んだ生物界の説明になっている。 昆虫の擬態など、いかにも意図が働いたようにしか見えない進化が有る一方で、なぜこんなにも生きづらい進化をしてしまったのか、とか、なぜこんなものが生き延びていられるのかと訝しまれる生物もたくさんいる。

 それは、進化が合目的的で無いからである。 見事な擬態は、たまたま生き残った者がそうであるだけだし、生きづらそうな者も、たまたま生き延びていられただけである。

 生物は少なくとも30億年という時間を経験している。 そのうち、たとえ「たった30分の1である1億年」を考えてみても、これは途方も無い時間だ。 「神の恩寵」という言葉があるが、遺伝子がランダムに変異する事を1億年も繰り返す、というのは、神の恩寵などというものを遙かに超える「体験」であろう。 そのような途方も無い時間のランダム変異の果てには、どんなに合目的的に見える者が現れても、あるいはどんなに不都合に見える者が現れても、まったく不思議ではないのだ。

 私は子供の頃、人体や生物に無駄なところは無く、全てがきわめて合理的に出来ている、と何かの本で読んだ事がある。 子供だったし知識も無かったので、へぇ~そうなのか、と単純に感心していたが、進化論を知ると、それは怪しいと分かる。 無駄が無く、合理的に出来ている「ように見える」のは、何億年ものランダムな変化を繰り返し蓄積した、神の恩寵を遙かに超える体験の結果なのだ。

 

 さらに言えば、変異がランダムである、という点は、生物の強さになっている。 生物はランダムで多様な姿を得て、地球の至るところに生息する、という者であるからこそ、過去の予想不能な環境の変化に、30億年以上も絶えずに生き残ってこられたのだろう。
 極地の氷の中に生き延びる者、深海の熱水に生き延びる者、遙か上空に生き延びる者……これらの存在を知れば、たとえ全面核戦争や天体衝突で人類や哺乳類が全滅しようとも、地球の生命は絶えないと予想できる。

 

 ならば、「進化」とか「適者生存」という言葉を、どう言い換えればより適切なのだろう。 私は、「進化」よりも「継代変化」や「新化」と言ったり、「適者生存」よりも「結果生存」と言うほうが、より妥当ではないか、と考える。

 進化、という言葉を使えば、私たちはなんとなく、「より優れたものになる」と思いがちだし、進化後の生物が進化前の生物を駆逐した、という図式は分かりやすい。 しかし実際はそうとは限らない。 進化した結果、より弱い生物が生まれる事も充分有り得るし、進化後の生物が進化前の生物に駆逐される事の方がむしろ多いのではないか、とも思える。

 さらに話がややこしいのは、「弱い」とか「強い」とか「優れた」という人間の主観的な尺度が、1億年というスケールの前では意味を失うからである。 ここを無視して作られたのが優生学や優生思想だ。
 「その時」に弱い者が、次の時代には「適者生存」する事だってあるし、「その時」に優れた者が、次の時代に適応できず滅ぶ事もある。

 だから「適者生存」ではなく「結果生存」なのである。

 シアノバクテリアが天下を取った時代も有ったろう。 甲冑魚類が我が世を謳歌した時代も有ったろう。 恐竜が覇者だった時代も有ったろう。 サーベルタイガーが最強だった時代も有ったろう。 しかしそれらは全て「その時」の話であるし、この先の未来もおそらくそうであろう。

 

 つまるところ、我々生物は、「ある環境下」で生きるのだから、その環境がもたらす「淘汰圧」から逃れられない(淘汰圧や自然選択という言葉は、良い訳である)。 ある生物種が淘汰圧に耐えて生き延びられるかは、その種の持つ遺伝子ゲノムに依る。 ゲノムが変異して「新化」した結果、「今の」淘汰圧に耐えられなければ死滅し、耐えられれば生き延びる。 「結果生存」である。

 ランダムな「新化」は、淘汰圧に耐えられず死滅する者を作る一方で、耐えて生き延びる「新種」を作り出し続ける。 こうして多彩で多様な生物界が作られてゆく。

 

 多様性がなぜ大切なのか、それを理解するためには、単純だが人間の価値観を排除した進化論の理解が必要だ。 21世紀になって、少なからぬ人間は、ようやくその境地に達したのであるが、まだ多くの人に浸透してはいない。