khurata’s blog

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情報との付き合い方

(もともと「Yahoo!知恵袋」の「知恵ノート」だったものを転載しています)
(最終更新日時:2014/5/28)投稿日:2012/7/9

はじめに

 本ノートでは、現代・ネット時代における情報の特性、関わり方・姿勢などについて、私が個人的に感じ、考えている事を書き散らかしていきます。

 

基本の「き」―情報を出す動機

 情報は、人が発信するものです。 当たり前の事ですが、冗談や、気の迷いでも無い限り、情報を発信する人には、その人なりの意図や根拠があります。
 ある情報について、「それは嘘」「有り得ない話」「妄想だ」等と決めつけるのは簡単ですが、情報を出した人から見れば、その情報は「真実である」か、あるいは、「有用な情報」なのです。

 もし、嘘だと分かっていれば、そんな情報をわざわざ出す事はしないでしょうし(嘘つきと呼ばれるのが大好きだ、という特殊性癖は別として)、あるいは、嘘と分かっていても、それを出す事が、その人にとって有利だからこそ、その人は情報を出してくるのです。

 つまり、どんなに訳の分からない馬鹿げた情報であっても、情報を出す側には、その情報を出すに足る動機が、必ず有るのです。

 ですから、情報を受け取った時には、その情報自体の内容・価値・真贋を見るだけでなく、「情報の出元は、なぜ、この情報を出そうと考えたのか?その事によって、情報の出元は、何か得をするのだろうか?あるいは、他の何者かが得をするのだろうか?」……と、情報を出す動機について常に考える事は、大切な基本姿勢です。

 これは、ネット時代であろうが、原始時代であろうが、常に変わらない、基本の「き」です。

 

マスコミという商売

 何百年か前から、この世界には「報道」とか「マス・コミュニケーション」でメシを食っている人達が存在します。 そして、新聞やラジオ・テレビなど、いわゆる「大マスコミ」は、我々の生活や考え方に、非常に大きな影響力を持っています。
 現代文明人は、食べるもの・飲むもの、着る服、買う家具、聴く音楽、出かける場所、友人との話題、異性の好み、……これらほとんど全てを、マスコミから得た情報によって決めています。 ……いや、「決めていると思い込んでいる」のかも知れません。

 これらマスコミによって報道される事柄は、重要性によって、取り上げられ方が違っています。 新聞なら、より重大なニュースが1面トップになり、そうでないニュースは、中の方の隅っこに、小さな記事として載ります。
 テレビ・ラジオでは、より重大なニュースは、より多くの時間を割いて伝えられ、そうでないニュースは、わずかな時間しか与えられません。
 この事は、多くの人にとって、たぶん、「生まれた時から当たり前」であって、疑うところではないかもしれません。

 しかし、それが「重大なニュース」であるかどうかは、一体、誰が、どうやって決めているのでしょう?

 不吉な「たとえ話」で申し訳ないのですが、あなたの親しいご友人や、ご家族が、事故で突然亡くなったという知らせを受けたとしましょう。 これは、あなたにとって、人生を左右するほどの、きわめて重大なニュースであるはずです。 しかし、大マスコミは、よほどの著名人でない限り、それを1面トップ記事にしたり、テレビで報じたりはしません。

 その一方で、行く事も無いであろう遠い国の出来事が、トップニュースになったりします。

 つまり、マスコミは、何が重要かを、確かにふるい分けてはいるのですが、その判断基準は、我々1人1人の基準とは、全く違うのです。

 本章のはじめに私が書いた事を憶えておいででしょうか。 「マスコミは、それでメシを食っている人達」です。

 つまり、マスコミにとっての「より重大なニュース」とは、「よりカネになる、より売れるニュース」です。

 何が、どのように、「よりカネになる」のか、それは色々あります。 より多くの人々の耳目を引くニュースならば、多くの人が新聞を買い求めたり、より多く視聴するでしょうし、スポンサーの意向に沿う内容は、マスコミにとって大切です。

 逆に言えば、マスコミ自身やスポンサーの意向に反するようなニュースが、トップニュースになる事は、まず無いのです。 当たり前ですが、商売人は、売り物にわざわざ傷を付けるような事はしません。

 現代文明人である我々の生活や判断・嗜好、そして「一般常識」というものは、こうしたマスコミと、マスコミのスポンサーの意向によって、大きく影響されています。

 

クオリティ・ペーパー

 quality paper は、「経済、国際、政治などの『お堅い』内容ばかりの新聞」という意味で、普段使われている言葉です。 確かにそういう傾向はありますが、しかしクオリティ・ペーパーという言葉には、他にもっと大切な意味が込められています。

 フランスに、「ル・モンド」(Le Monde)という新聞がありました。 ル・モンドは、20世紀のクオリティ・ペーパーの代表と言われた新聞です。 ただ、21世紀に入って、経営不振などから「身売り」もあって、内容はだいぶ変わってしまいました。

 かつてのル・モンドの紙面を見ますと、どの記事も、見出しの大きさに、あまり差がありません。 多少の大きさの差はあるのですが、我が国の新聞のように、ドでかい字の見出しはありません。
 色も、写真も、ほとんど使われていません。 様々な記事が、ただ羅列されていて、それぞれの重要度に、あまり差が付けられていないのです。

 明治の頃は、我が国の新聞も、似たような感じでした。 国際的な重要事も、近所の泥棒も、似た大きさの見出し、似た字数の記事だったのです(ただし、その頃の新聞は、紙面のほとんどが広告で、報道はオマケみたいな面積でしたが)。

 そのような紙面を読む側は、どれが重要なニュースなのか、自分で読んで判断するしかありません。 遠い国の戦争よりも、近所で起きた空き巣の方が、重要だという事もあるでしょう。 もちろん、その判断基準は、マスコミにとって重要とか、スポンサーにとって、ではなく、自分にとって重要かどうか、です。

 「集めた情報のうち、出せるものは全てフラットに、『色』を付けずに出す。何が重要かは、読者それぞれの判断である」……これが、クオリティ・ペーパーの姿勢です。

 クオリティ・ペーパーの読者は、特に意識しなくても、何が重要か・重要でないかを、自分の判断で、日々決めていく生活を送ります。 情報に接した時、自分で、その情報について判断出来る……そういう読者が育つのが、クオリティ・ペーパーたる所以なのです。

 残念ながら、現代の我が国に、クオリティ・ペーパーは見当たりません。 1面トップの記事や、見出しだけ拾い読みしている人は、「何が重要かの判断」を、マスコミやスポンサーに丸投げしているのです。 そういう人達が増えれば、社会はマスコミやスポンサーの意のままでしょう。

 一応は、報道の立場から、「都合の良くないニュース」も、載せなければならない、という事情が新聞にはあります。 そういう記事は、中の方とか、隅っこの、小さな記事になっています。
 もし、あなたが新聞を取っているなら、隅から隅まで目を通すことです。 その姿勢が、「現代日本の残念な新聞」を、「クオリティ・ペーパーに近づける」ことでしょう。

 

ネットの検索とパーソナライズ

 我が国でインターネットが生活で普通に使われるようになってから、すでに15年以上が経過しました(2013年現在)。 非常に多くのウェブサイトや掲示板、ブログが作られ、日々膨大な量の情報を発信しています。 この「情報の洪水」は、今後も止まる事は無いでしょう。

 こんなネットを使いこなすには、どうしても、「検索」を使わざるを得ません。

 もし検索が一切出来なかったら、ネットは今ほど便利ではないでしょうし、人々にここまで受け入れられる事も無かっただろうと思います。 だからこそ、Google とヤフーは、大企業に成長しました。 ネットにおける検索は、とても大きな需要があるのです。

 ところが、情報があまりにも増えすぎると、「単なる検索」では、ちょっと不便な事もあります。 欲しい服を探すのに、ただ「服 通販」とだけ検索しても、膨大な検索結果が出てきてしまい、好みの服を探し出すのは、なかなか大変です。

 もし、「検索」が、普段の自分の行動や、自分がすでに持っている服(購買履歴)、自分の好み、流行などを「考慮・加味して」検索してくれたら、便利だ……とは思いませんか?

 実は、そうした検索技術は、とっくに普通のものになっています。 それは、「パーソナライズ検索」と呼ばれています。 訳すならば、「個人指向検索」でしょうか。

 たとえば GoogleGmail にログインしたまま検索すると、Google アカウントに設定してある性別・年齢・居住地・検索履歴などの個人情報を使って、「フラットな『素』の検索結果」の中から、自動的に「ふるい分け」「抽出」が行われるのです。

 同じ言葉で検索しているのだけど、自宅の PC・自分のスマホでの検索結果は、出先の PC や、知人宅の PC とは、何だか違う……という経験をお持ちの方はいらっしゃるでしょうか。 それは、パーソナライズされた検索結果かどうか、による違いなのです。

 そういうものだと分かって使うぶんには、パーソナライズ検索は、便利で、時間も大幅に節約出来る、賢い技術です。

 しかし、良い面ばかりとは限りません。

 たとえば、いつもの感じとはちょっと違うモノを探したい、という場合、パーソナライズ検索は、むしろ邪魔です。
 本当に必要な結果、より良い結果が、「隠されてしまう」ことも有り得ます。 パーソナライズ検索は、「お節介」が過ぎる事も有るのです。

 また、パーソナライズ検索の「材料」に、個人情報がどこまで使われているのか、という不安もあります。 「より良い快適なサービス」のために、Gmail の文面を読み取られているのだとしたら、空恐ろしい感じがします。
(参考 http://k-tai.impress.co.jp/docs/news/20120301_515854.html

 そして、パーソナライズ検索の「本当の弊害」は、「馬鹿を育てかねない」という点です。

 「そういうものだと分かって使う」ならば、素晴らしい技術ですけれども、「分かってなくて使っている人」も、少なくないと私は思います。
 そういう人達は、「お節介が施された結果」しか見ていない、つまり、「過保護な親に庇護された子供」みたいになっているのです。
(「検索して見つからないから『無い』のだ」と言い張る人を時折り見かけますが、「本当に」検索出来ているのでしょうか?)

 「それだけを鵜呑みにしていると、本当に重要なことを見逃すこともある」という点で、パーソナライズ検索には、新聞の見出しのような陥穽が有るのです。 新聞も検索も、使う側の姿勢1つで、「馬鹿製造器」になるのです。

 

マスゴミについて―その1

 「現代の大マスコミは、どれもこれも、ロクな情報を流さない。スポンサーに日和り、偏向報道ばかりで、真実を見せていない」という事から、マスコミを、「マスゴミ」と揶揄する人達がいます。

 しかし、マスコミは商売ですから、カネになる報道しかしないのは当たり前です。

 八百屋さんに向かって「お前んとこは野菜ばかり売ってて、偏った商売だ。魚や肉も売るべきだ」と言ったところで、詮無い事です。 マスコミは、カネになる情報、都合の良い情報だけを流すからこそ仕事になっているのであって、そこは非難すべきところではありません。

 また、「マスゴミ」の出す情報は「ゴミ」だから、見聞きする価値も無い、見るだけ無駄、と言う人達も少なからずいます。
 しかし、マスコミにだって、もちろん「情報を出す動機」が有るわけです。 何が動機なのかは、出てきた情報を見るしか、知る由はありません。

 麻雀(マージャン)というゲームがあります。 2~4人で対戦して、隠し持った手持ちの牌(パイ)、これはトランプのカードのようなものですが、これを他人より早く、うまく揃えれば勝ち、というゲームです。
 麻雀では、他人からは見えない手持ちの牌の組み合わせを、他の誰よりも素早く、うまく揃えねば勝てません。 そのために、シャッフルしたところから1つずつ牌を取って、そしてそれを見て、要らない手持ち牌を1つずつ捨てていく、という事を繰り返します。
 捨てた牌は、それぞれのプレイヤーの前に集めて置かれ公開されます。 これを「河」と言うのですが、麻雀が上手い人は、他プレイヤーの河、つまり捨て牌を見る事で、他プレイヤーの手持ち牌がどういう構成かを推理します。
 他プレイヤーの手持ち牌は、隠し持っているのですから、そのものズバリは見えません。 しかし、捨てた牌でないモノを持っている可能性は、かなり高いわけです。 つまり、河の牌構成の、逆の構成が、対戦相手の手持ち牌と、目指している組み合わせを「教えてくれる」のです。

 マスコミが出してくる情報は、マスコミが得た情報のうち、「出す動機があるもの」だけです。 マスコミが出す情報を注意して見る、という事は、マスコミの「河」の裏にある、彼らの動機を知る事につながります。

 麻雀を少しでも知っている方であれば、「相手の河を見ずに麻雀に勝つ」事は、手持ちの牌構成がよほど良い時以外は、きわめて難しいとお分かりでしょう。
 同様に、マスコミに打ち負かされたくなければ、マスコミの出す情報を無視すべきではありません。 マスコミを敵視するなら尚更、その情報・報道を注視するべきです。
 「マスゴミ」の出す情報が無価値であると断ずるのは、河を見ずに麻雀で対戦するようなもので、向こう見ずの蛮勇です。 敵軍の情報を見ずに戦えば、勝ち目は有りません。

 

マスゴミについて―その2

 「戦う必要はない、マスゴミは自滅する」という話も、よく聞きます。 確かに、テレビの視聴率は低落傾向にあり、新聞の発行部数もだいぶ落ち込んでいます。
 しかしそれでも、今なお多くの人が、マスコミ情報により生活を送っています。 特に、高齢者はその傾向が強いです。

 現代の我が国では、高齢者は、人口構成の大多数を占めています。 少子化なのですから当然です。

 今の民主主義制度は、選挙の票数で行く末が決められる制度です。 つまり、仮に全世代の投票率が100%だったとしても、今の我が国では「高齢者が必ず勝つ」のです。
 ましてや、今の若い世代は、選挙になかなか行きたがりません。 頭数で負けて、投票率でも負けていては、若い世代のための政治や、少子化対策、結婚対策など、為されるはずがありません。

 そして、高齢者ほど、大マスコミの言う事を信じています。 新聞や、テレビは、正しい事を流すと信じているのです。 マスコミは、「カネになる事しかしない」のに。

 だから、若い世代が、「良い政治」「好ましい未来」を享受したければ、自らが、戦うしかないのです。 戦うにあたって、「相手の河」を見ない、というのは、戦法ですらありません。 わざと負けるのと同じです。

 「マスゴミを敵視する人」は、身近な高齢者、ご両親、祖父母、親戚の方々などを、「敵」から奪回しなければならないはずです。 その際、「マスコミは嘘ばかり言う、若い私を信じてほしい」と言ったところで、果たして高齢者は信じてくれるでしょうか。

 高齢者は「敵」ではありません。 それどころか、決して敵にしてはいけない人達です。 数では圧倒的に優っている人達を敵に回して、若い人達に勝ち目は無いからです。
 幸い、多くの親は、子について真剣に考えているものです。 親や祖父母に粘り強く話しかけ、味方に出来れば、「マスゴミに勝てる」戦い方も、見えてくるでしょう。

 

マスコミの凋落と、その影響

 「マスゴミ」の情報を見ない人達、ネットをより重視する人達が増えた結果、マスコミの収益は、ガタ落ちになっています。
 「マスゴミ」と揶揄している人達から見れば、それは望ましい変化かも知れません。 しかし、社会的には、決して好ましい変化だとは言い切れない面もあります。

 米国の、ある町の話です。 そこの地方紙も、ご多分に漏れず、売り上げが低迷し、結局は廃業に追い込まれました。 記者達は食いっぱぐれてしまいました。
 しかし今はネット時代、記者が個人で情報を発信する事は、充分可能です。 記者達は、個人個人で、頑張って情報を収集し、記事を書き、ネットで配信しました。

 その結果、どういう事になったかと言えば、彼らの配信するニュースは、ことごとく、地域の事、身近な事件の事だけになってしまったのです。
 海の向こうで何が起きているのか、隣りの州でどんな大事件が起きているのか、国政の状況は……こうした事を取材し、書き起こし、伝えられる者が、その町にはいなくなってしまいました。

 個人記者が、海外の戦地へ取材に行ったり、海外に駐留したり、事件の現場にすぐさまヘリを飛ばしたり、という事は、まず不可能です。 そのようなニュースを得るには、どうしても、大資本の力、組織の力が必要です。

 ネットを使える人達は、地域外の報道に触れられるので、そんなには困らないでしょうけれども、ネットを使いこなせない人達は、21世紀の先進国の住民であっても、「報道」から断絶されてしまうのです。
 もし地域外の「マスゴミ」も同様に潰れていったら、我々は、どうやって事件現場にヘリを飛ばしたり、海外の戦地の様子を知る事が出来るでしょうか。

 私は、マスコミを擁護したいわけではありません。 マスコミは、うまく使えばそれで良いと思います。 繰り返しますが、マスコミは商売なので、「売り物」をうまく買えば良いのです。 八百屋さんがジャガイモを安売りしていても、今日ニンジンが必要ならニンジンを買えば良いわけで、売りたいものと買いたいものが違うからといって、「八百屋は潰れろ」という話にはならないでしょう。

 もっとも、売りたいものが売れなければ、ただ自滅していくだけなので、そこはマスコミ自身が何とか努力してくださいとしか言えません。 残念ながら、今のところ、良い知恵は無いようで、「報道の危機」は、少しずつ迫っています。

 世界各地からニュースをひたすら集めて、報道機関に売る、「通信社」と呼ばれる仕事があります。
 通信社さえ儲かっていれば、「報道の危機」は避けられるかも知れませんが、しかし通信社が儲かるのは、ニュースを報道機関に買ってもらうからであって、やはり報道機関がそれなりに潤っていないと、「報道の危機」は訪れてしまうでしょう。
 個人の記者達が手を組んでカネを出し合い、通信社のニュースを買うのであれば、それは結局、「大マスコミ」の復活に他なりません。

 

ネットの特質―文字伝達の難しさ

 人が書いた文章を、文面だけを見て、本当はどういうつもりで書いたのか判断するのは、なかなか難しいことです。

 親しい仲でも、メールの文面1つで、不機嫌にさせられたり、怒らせてしまったり、という事は、ままあります。
 カラオケなど、実際に顔を合わせて一緒に遊んでいる時に、笑いながら「死ねよ!」「キモっ」なんて、親しいからこそ言い合ったりしますが、メールで「死ねよ!」「キモい」なんて書いて送ってこられたら、これは、穏やかではありません。

 文字は、表情や口調、その場の雰囲気・流れを伝えきる事が出来ません。 だからこそ、絵文字や顔文字・AAが強力な補助手段として使われるのですが、それでも、文字伝達がネットの基本である以上、ネット上のやりとりで本心を伝えるのは、とても難しいのです。

 「お前はバカだな」という単純で短い文面ですら、けなしている言葉なのか、それとも褒めている言葉なのか、これだけで判断するのはほとんど不可能です。

 ネットでは、真意をきちんと表現する事も、他人の真意を読み取る事も、どちらも難しい……ネットを「使いこなす」には、相当の文章力が求められるのです。

 ネットを使う際は、これを大前提として、常に意識すべきでしょう。

 

ネットの「信用してはいけない人」

 ネットにおける、「信用してはいけない人」の見分け方が、少なくとも1つあります。

 それは、自分の発言内容や、他人の書き込み内容を、改変したり消したりする人です。
(もちろん、冗談とか気の迷い、操作ミス・誤変換・打ち間違いで為された投稿等は、この限りではありません)

 ネットは、新聞や書籍と違って、内容の書き換えが容易です。 それは、ネットの大きな利点でもあります。 電子書籍は、改訂のたびに本を刷る必要が無く、わずかなコストで常に最新の内容にしておく事が出来ます(「知恵ノート」もそうです)。

 しかしその反面、いったん書いた事の改竄(かいざん)も容易です。 自分に都合の悪い発言・文面を、消したり書き換えたり出来ます。 他人の発言を、意図的に変更して引用する事も、簡単に出来てしまいます。

 「間違っていたから、正しく書き直したんだ。何が問題なんだ」と言う人もいるかも知れません。 しかしそれは、私に言わせれば、やはり問題であり、そういう人は信用しづらいのです。

 人である以上、間違った事を書き残す事はあります。 それを訂正するのは、もちろん必要で、大切な行為です。

 しかし、たとえば「間違いを訂正し続け、常に正しい事しか残っていないブログ」が有ったとして、そのブログの内容は信用出来るかもしれませんが、ブログの作者は、果たして信用出来る人だと言えるでしょうか。

 そのブログの作者は、「過去に自分が間違った事を、全て塗りつぶしている人」なのです。

 人である以上、その人は、これから先、間違った事をブログに書く事もあるでしょう。 でも、「正しい事しか無い」ブログを訪れた人は、その内容を「必ず正しい」と誤認してしまうかもしれません。

 もし、過去の訂正についても、きちんと書かれていたなら、そのような誤認は激減するでしょうし、そのブログ主は、「過去を塗りつぶしたりしない人」だということです。 「人は間違う事もある」ということを、素直に認めている人です。

 「自分の間違い」なんて、恥ずかしいものですし、出来れば残したくない、その気持ちは私も同じです(笑)。 でも、それを残す事が、その人の信用につながっていくのです。
 いったん定着した過去を、無かったことにしたり、変えたりする人かどうか―これは、私の経験上、間違いない「信用の尺度」です(歴史を捏造する国が信用出来ないのと、同じくらいに)。

 ネットに直接打ち込まなくても、「メモ帳」で推敲してからネットにアップする事は出来ますし、ブログによっては「下書き」機能も付いています。 「定着」させる時期なんて、いくらでも選べます。
 ですから、ネットでいったん公開し定着した文言の責任は、一方的に、公開した人の側に有ります

 ネットは書き換えがとても容易なので、「過去を変えたい」気持ちが出やすいものです。 「失敗を塗りつぶす人」は、その強い誘惑に負けてしまった人でもあります。

 でも、過去を変えて、「良いこと」なんて、ただの1つだって有るのでしょうか。

 有能な人間は失敗から学ぶから有能なのである。 成功から学ぶものなどたかが知れている。
ウィリアム・サローヤン

 もし、過去の失敗を全て忘れ去ったなら、人は、何度でも同じ間違いを繰り返すでしょう。 なればこそ、ネットを活かす方法もあるのです。 ネットは、書き換えも容易ですが、検索も容易です。

 失敗をネットに残しておけば、それは検索可能になります。 後から来る人達は、同じ失敗をせずに済み、失敗を残した人は「過去を変えない人」として信用されます。 これは、「失敗を塗りつぶす」よりも、格段に上手いネットの使い方だと私は思います。

 

おわりに

 自分で「書き散らかす」と言っただけあって、見事にまとまりの無いノートになりましたが(汗)、どれか1点でも、読んでいただいた方のお役に立つ事があれば、嬉しく思います。
(転載以上)