khurata’s blog

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小池都知事の心の傷

(もともと「Yahoo!ブログ」だったものを転載しています)
(投稿日時:2017/10/26(木) 午後 3:53)

 

 こんな事、今更説明されなくたって誰もがすぐに分かった事だと思うが、2017年衆院選挙で「希望の党」が思い通りの議席を得られなかった理由のうち、大きなものは、党首・小池氏の「排除」発言であろう。

 先般の都知事選挙において、小池氏は「ふるさと」である自民党から「排除」された。 世間の人情は、排除する側イコール権力側よりも、排除された側イコール反権力側に同情・同調しがちである。 なぜなら、大衆は権力を持たない者達だからだ。
 女性である事も手伝って、「排除された小池氏」は都知事選では完勝した。

 ところが今回の衆院選では、小池氏は、あろう事か、権力側イコール排除する側の立場に自らなってしまった。 世間の人情がどう動くか、結果は明らかである。

 都知事選の時の「構図」を、小池氏自身も、「希望の党」の側近達も、分かっていたはずではなかったか。 勝者の驕りで勝因分析をしていなかったのか、それとも「分かっていたが『排除』の論理を愚直に押し通した」のか……とまれ、結果としては「分かっていなかった」のと同じ事になってしまった。

 私は、「親から虐待を受けて育った人物が、自ら親となった時に、また子を虐待してしまいがちである」という「虐待の連鎖」を思い起こさずにはいられない。

 かつて「ふるさと」であった自民党から排除された小池氏の心のうちを知る事は出来ないが、自民都連からの決別は、並々ならぬ決心を要したであろうことは容易に想像できる。 たとえ、親から虐待されていても、親からの決別と自立を決意し、実行するのは容易なことではない。

 しかし、自ら権力の座に就いた時に、「虐待」を繰り返してしまう……小池氏は、自ら傷付けてしまった人達に対して、「謝りたいと思います」と述べたが、「謝ります」とは言わなかった。 つまり「謝りたい」けれども「謝る」わけにはいかないのである。 その言動は、小池氏が過去に受けた大きな傷がまだ癒えていないことを思い窺わせる。

(以上)